2000年米国旅行記
4月5日ー5月9日までアメリカの旅でした。膨大ですが記録です。
私たちのアメリカ
プロローグ
1989年の6月5日に私は初めてアメリカの旅に出た。グランドキャニオンの遊覧飛行を含むツアーに参加した。
それは中国の天安門事件の直後である。
私にとっては博多時代の後半以来気がかりであった鬱病の母がその年の1月末に胃癌宣告され、
5月13日に看取った後で、三菱を円満退職し、長谷工に移籍する休職の間の旅であった。
最初の訪問地ワシントンで1泊し、翌6日にホワイトハウスやアーリントン墓地等を見て、
夕方ニューヨーク向けのアムトラックに乗った。
空いていて、コンパートメントに一人で座っていると乗って来た小柄の男性がソニーのカセットで熱心にテープを聞いてる。
私から話しかけて、彼がミュージカルフアンという事がわかり、親近感が増したようだ。
フィラデルフィアを過ぎる頃にはジェファーソンの憲法起草の説明までしてくれる程話した。
しかし私の会話力は所詮しれてる。彼にはお嬢さんがいるというので、持参の日本の扇子をプレゼントした。
彼は書籍商で、沢山の本を持って乗り込んでいた。
2時間位で彼が駅で降りる際に沢山の本を降ろす必要があるので、いささか本を運ぶのに手を貸した。名刺を交換した。
彼が呉れた名刺は裏に「アドレスを呉れるなら、日本では聞けないような
ミュージカルの音楽テープを送るよ」と書いてある。今回の再会にもその名刺を持参する。
彼が1944年生まれのケント氏で帰国後のペンパルとして
11年(97年春に私がE-Mail導入までは郵便)文通して来た。音楽や歴史、美術愛好の教養人である。
「思い出も友人も自ら作るもの」であるという私の信条から咲いた花である。
93年妻を亡くした際には$36の小切手を送ってきて呉れた。
後で分かったが彼はユダヤ人で、ユダヤでは知人の不幸には然るべき団体などに18の倍数の金額を寄付するらしい。
長谷工遺児育英基金に寄付して、礼状を基金から彼宛てに書いて貰った。
95年の大地震の際にはびっくりして長谷工の本社に直接電話して安否を確かめて呉れた。
社員には人身事故なしと聞いて安心したらしい。長女のコンスエロが97年に広告業に携わるスタインスキー氏と結婚した。
今回はマンハッタンにある彼女の家にもユダヤ教のお祭りの儀式、正餐セダーに招かれてる。
御自慢の息子コリーは美術に才能があり、Maryland Instituteカレッジに入学した。
次女のマナはヴァージニアの施設communeでボランティアをしてるらしい。11年間には多くのプレゼントを交換した。
教会でのミサ曲の合奏のヴィデオは96年のモーツアルト以来送って、聞いて貰ってる。
お互いに子どもが育ち、empty nestとなった。彼から自宅の2階の寝室の提供の申し出があった。
時候と彼の出張のタイミングに合わせて2000年4月5日にいよいよニュージャージーを美津子と共に目指すことになった。
精道小以来50年の交友の高松君がピッツバーグに赴任してる。彼とも再会の予定。
5日
花曇りの神戸を出て、ノースウエストの17番ゲートから乗る。メリルストリープ主演のバイオリン教師の感動映画を機内で見た。
バッハのドッペルコンチェルトを生徒と共にカーネギーホールで合奏するのがクライマックスで
つい10日前の芦屋での演奏を思い出した。午後2時半に経由地のデトロイトに着く。
アメリカ国内の電話をかけようにもコイン挿入の機械がない。ノースウエストで25通話のカードをサービスに呉れたが、
How to callが分からない。そこで有料のテレフォンカードを苦労して$20で購入した。
教えて呉れた空港の係員が裏をコインでこするとピン番号が表示される。
裏面の指示によれば余りにも沢山の番号を押さねばならない。あきらめた。
乗り換えの便はゲートも変更、時間も1時間遅れるはで、時差ボケもあり、ホトホト疲れ果てた。
(電話のシステムはなれると交換手の指示でボタンを押してゆけば自分のピン番号から
通話料が差し引かれるのでホストに気兼ねが不要である)7時半にLa Guardia空港に到着。
美津子がマイクを見付けた。マイクは本当に我々が来るのか心配していたらしい。
マイクの車はfordでWilliamburg bridgeからHollandトンネルを経て自宅に向かう。途中マンハッタンの夜景が見られた。
自宅前ではハナミズキdogwoodの花が美しい。夫人のCarlaが出迎えて呉れた。
2階の我々の寝室で旅装を解き、何も食べてないというとマイクが卵と豆腐でオムレツを焼いて呉れた。
周囲は全く静かな住宅地である。
6日
晴天、気温は60度 摂氏では15度位。マイクに儀礼上私のパスポート写しを渡した。
Bagleにペースト2種類、それに鮭の薫製(Loxという)をはさんで食べる。
紅茶とジャム。美味である。当家は原則食事は主人が作る。勿論跡片づけは適宜みんなでする。
ダイニングや台所にごみ箱がなくて、終始ゴミは地下室のドアーを開けて捨てる。
しかるに部屋という部屋ゴミが落ちてない。
今日はまず車で列車の駅、近所のスーパーを回り、国内の飛行機の予約をCranfordの業者で済ました。
Pittsburgh行きが$1,040だが土曜に宿泊すると半額になる。
兎に角住居が高い木立と芝生に囲まれて夫れ夫れに美しく、ハナミズキとマグノリア、
黄色のレンギョウ(Forsythia)が咲き乱れて、別世界のようである。昼食はWestfield地区でサンドを食べる。
靴屋があり、美津子は須磨の母からの依頼があった靴を買えたばかりか自分の靴もあつらえる事が出来た。
オーダーメイドも同じ価格である。
1足$82を小切手で支払う。寒い日は昨日までで日中は暖かい。
周囲に慣れるために午後4時からスーパーまで散歩した。匂うがごとき街路樹の並木である。
シャワーの後に近所のスペイン料理Mojare grilleに酒を持ち込んで食事(酒の免許が高いらしい)。
私は鮭、美津子はマグロ料理。$90は折半(split)にした。以後は原則交互に支払った。
さて、マイクの屋敷はvictoria調である。
二重の玄関に続くホールの右にマントルピースのある客室があり、その奥がダイニングルーム、
ゆったりした台所、客間にはガラス張りの大きなテラスがある。
2階は夫婦寝室と我々の滞在した寝室、それぞれに風呂とトイレがある。子ども部屋は今は誰もいない。
atticはマイクが改良したもので仕事部屋と書庫と休憩ルームがある。
敷地は230坪 20年前から住んでいて今の時価は30万ドルという。
築後100年で最初のオーナー夫人の写真を飾ってる。壁の色はテオドル・ルーズベルトの生家と同じ鼠色にしてある。
7日
快晴。マサチュセッツ州のOld Sturbridge Villageまでドライブに出かける。
ハドソン川を渡り、NY州、コネチカット州を経て4時間、工事や事故で渋滞した。
道中フォークやケイジャン音楽をかけてくれる。Dulcimerという古いアメリカの楽器を教えて呉れた。
ニュージャージーから北に400マイルも行くと冬の気温も低く、樹樹の高さも低くなる。
villageは要するに1830年代のニューイングランドの村の生活を建物を移設して「生きた博物館」にしているもので、
感動するのは働いてるスタッフがユーモアにあふれる精神の持ち主であり、それぞれにユニークである。
銀行マン、集会所のオルガン弾きの爺さん、靴屋のおじさん等が目に浮かぶ。
羊毛の紡績等かなり当時でも機械化されてる様子を理解して欲しいらしい。
乾燥してるせいか唇が乾く。美津子の持参したリップクリームを愛用する。帰途Hartfordという町に行く。
ここはマイクが20年以上前に2年半程暮らしたところで旧住居も見せてもらったが、ずっと質素なものであった。
近所にマークトーエンの住居があり、博物館になってる。ちょうどミシシッピーのボートに似せて設計されてる。
経済的にも成功したらしい。面白いのは広場を隔ててストウ夫人の家もある。両人は仲が悪く往き来はなかったという。
Green Grassというタイ料理の店に入る。ここは私が勘定を持つ(my treat)。
可愛いウエイトレスが途中で変更になったので心配してたら、請求書に彼女の似顔絵が書かれてThank youとあった。
混雑を避けて12時に帰宅した。車中で慰みに美津子と「ふるさと」等の童謡をハモッテ聞いてもらった。
彼らもアメリカの歌を歌って呉れた。
8日
晴れ 朝、日本のお粥をマイク達と食べる。gruelまたはporridgeという。
彼らは宗教上鱗や鰭のある魚は良いが、貝は食べないのでかつお(skipjyack)やふりかけで食べた。
11時半の汽車でNYに行く。地下鉄で偶々トニー賞を何度も受けた
脚本家兼ダンサーの男性Adolf Greenに会う。
セントラルパークを横切り、メトロポリタン美術館に行く。階段でファーストフードを食べた。
印象派とマイクの好きなウオーカー・エヴァンスという米国人の写真家の個展を見る。
明暗のハッキリした写真が印象的。
設計家ライトの作品が室内だけでもかなり移設されて見ごたえがある。5時から2階のテラスで音楽会がある。
飲み物$20でバッハ、モーツアルトを楽しめた。至福の時間であった。
ブロードウエーの券を引き換え、9番街でスペイン料理を馳走になった。11時のバスで帰る。
9日
予報とうり夜半から雪が降る。一面の雪の世界。信じられぬ光景である。
10時に日本の茶の手前を美津子が披露し、通りを隔てた向かいのマキ母子をお迎えした。
マキは日本人で米人の建築家ジェフ・パーソンス氏と結婚、娘2人を設けた。伴われた長女のアデールは日本語を解さない。
清純な美人である。マイクの収集した鉄びんも利用した。美しい干菓子と抹茶は喜ばれた。
11時半にtea ceremonyが終わり、その後2時半までマイクの飾った美術品を中心に両家の雑談が続いた。
アデールもマイクから美術品の説明を聞く。年ごろの娘が隣家の主人と美術談議をする。
日本ではあるのだろうかと差異を感じた。夜はマイクの手製のパスタとブロッコリーを食べた。
6年前にCarlaが倒れた際の不幸の予兆(foreboding)の話等に花が咲いた。
10日
ベーグルと美味なオレンジを食べた。郵便局で孫娘のバースデーカードを出す。
マイクが我々に地下鉄の乗り方を教授してくれる。
エンパイアステートビルに1時間並び、屋上からの360度の展望を楽しんだ。
5日に着陸したラガーディア飛行場や我がクランフォードの位置も把握出来た。
レキシントンまでF系統の地下鉄に乗り、96ストリートで降りる。
Jewish Museumでユダヤの歴史を勉強しておく為である。
マイクがあちらがダウンタウンだという方向が上り坂だと感覚が狂う。
聖典トーラや飾り具、メノラという7本の燭台と此れの様々なvariation。
ユダヤの歴史、モジリアーニやスーチン等パリのユダヤ人の作品展示を見た。
マイクはユダヤ教のコンサーバティブという穏便な宗派に属してる。
帰宅後は車でカルラも共にBloomberyのジャズレストラン「Trumpet」で生の演奏を鑑賞しながらの食事である。
女性のピアノ、コンボ、ベース、サキソホン、トロンボーンの編成。美津子もいたく感動した。CDを求めた。
11時半帰宅して日本茶でgood night!この頃美津子がベッドでWhat can I do?と寝言をいう。
この時期の我々の心理状態を良く示している。
11日
雨,旅行代理店で航空券を引き換えた。$2,100。今日は我々がリンカーンプラザまでマイクを案内するという趣向。
我々の進行方向が正しければ、マイクが親指でgood!という。12日および22日のオペラの券を引き換える。
近所の大きなvideo shop(Tower)に入る。豊富な品揃えで、ミュージカルのvideoやクラシックのvideoを求めた。
マイクがマイケルデーヴィスのCDを呉れた。22日の待ち合わせ場所Ollye*sの確認と、
明日のレストランCaf* des Artistsの確認を済ませた。
タクシーで近代美術館(MOMA)に行く。シートベルトを引っ張っても出て来ない。
マイクが一旦押し込んで静かに引っ張れという。MOMAでスープとサンドの昼食をした。
ブランクーシの彫刻やピカソ、著名な作品が多い。JAPと題した日本兵の死体の写真や原爆の罹災者の写真も展示されていた。
エジソンが発明したキネマスコープが25cで見れる。4時45分のバスで帰宅した。
近所の薬屋で筋肉痛の塗り薬、ヘアークリームを求めた。この日カルラは集会なので3人でマレーシア料理(中華)に行く。
マイクはkosher(清め)で処理した肉しか食べない。夜は歌舞伎や能の説明をした。
カルラも帰宅したので本を見せてどんな項目に興味があるかと尋ねた。答えはJapanese way of lifeであった。
所詮自分が理解し、自分のことばで説明せねば実が上がらない事が分かった。
第二次大戦の話ではマイクは最近までアメリカが開戦までに日本にしたことや
日本が中国、韓国にしたことを知らされていなかったという。下着を地下で洗濯して呉れる。ありがたい。
12日
我々の自立態勢完了でマイクは自宅の鍵を私に渡して呉れた。美津子とマイクは朝ネイルに出かける。
写真屋の夫人の経営の店。美津子は足の爪も赤くネイルして$35という。今日は我々だけで汽車でNYに行く。
メイシー百貨店で夏絵さんの祝い、香奈ちゃんの土産を買った。
再びvideo shopに行き、モーツアルトの歌劇クレメンティー等を求めた。予約のレストランで食事した。
定食(set meal)でも$145、期間中最も贅沢な食事であった。パヴァロッティーも客でくるらしい。
メトロオペラは7時半に開場。2階の中央である。座席の幅が狭い。開演前にシャンデリアが上に上がる。
「セビーリアの理髪師」昨年発表会で弾いたロッシーニの主題の歌が聞けた。
セリフの英語版が座席の前に示される。慣れると2幕目からは舞台と一緒に見れた。
バスの駅までマイクが迎えに来てくれた。頭が下がる思いである。寒さが残る。
13日
快晴、休養日かつ寿司作りの日である。材料買いに魚屋で鮭、スーパーで「チドリ米」(907grで$2)
トマト、セロリー、キュウリ、レタス、トウフ、エンドウ豆を調達。近隣ドライブをしてくれた。
ジョージワシントン記念公園ではsoldier*s hutt(小屋)が見れた。独立戦争当時の兵士の悲惨な状況の映画も見た。
付近はどこまでも美しい近隣の風景である。昼はとある食堂で暖かいほうれん草のKewishを食べた。
ちらし寿司は私も米とぎ、卵焼きと手伝う。米は加減が分からないが25分で奇跡的にうまくたけた。
トウフサラダのドレッシングはゴマ油、醤油(機内食の残り)、塩、酢である。
14日
私は散髪、スッキリした。予約した女性はカルラの元生徒という。又その母親はマイクの家の掃除に来る。
坊やダニエルの写真を飾ってる。日本のタコの飾りをプレゼントした。New Yorkではフリックコレクションを見た。
日本語の説明が無料で聞ける。余計に時間がかかった。レンブラント、マネ、モネの作品。ホルバインが描いた
「トマスモア」と「クロムウエル」の肖像画はこの収集家が並べて展示するためにコレクトしたもの。
アメリカ人ではホイッスラー、スチュアート(ワシントンの肖像の元祖)。ここにはmuseum caf*もなく、お腹がすいて疲れた。
バスターミナルに戻り、ラザーニアとオレンジジュース。それから更にBarで時間待ち。
マリオットホテル周辺で路上のパーフォーマンスを見た。
全身を白く塗った機械人間(生身の人間)がコカコーラの缶に投げ銭を入れるとお礼の合図をする。
そばに紳士がいて挨拶する方向を教えているらしい。マーチンベック劇場の前の宣伝にear to ear smileとある。
何となく分かろうというもの。ミュージカル「キスミーケイト」も満員。シェクスピアーの「ジャジ馬ならし」の翻意で、
アメリカ、イタリアと舞台が交互に進行する。最後はスタンディングオベイション。
最終のバスに乗り、マイクに駅から35cで電話した。バスの運転手はすべて黒人である。
15日
(土曜)朝9時半にシナゴーグ(ユダヤ教会)に行く。私もヤムルカを借りた。ロスアンジェルスの夫人が編んだものという。
当地でいうflowering crab apple海どうが美しい。
従来マイクが属していた教会が友人のrabbi(ラーバイ)を解雇したので教会を変えたという。
祭壇のArkと呼ばれるトーラの保管箱からトーラが出されて、教会の左半分を司祭が持って歩く。
この際トーラに視線を向けねばならない。当日は13歳の男子の成年式で儀式が行われる。一族が出席して祝福する。
最後に右半分を司祭が歩く。トーラにそっと手を触れる人もいる。割にザワザワしていて厳粛感はない。
昼食もパンやサラダを教会の食堂でお相伴した。カルラは極力新しい教会に溶け込む努力をしている。
相気道2段の人にも紹介された。昼寝を2時間して蘇生した。
夜は英国の19世紀のギルバートとサリバンのコンビで作られたミュージカル
「Pinafore」をSymphony Space劇場に見に行った。車中で劇の粗筋をマイクが説明して呉れる。
雨で、停車出来た近所のインド料理(野菜食)を食べた。勘定を済ませてみるとカルラがボックスの札を取れという。
小さな紙切れで「人にはそれぞれ個性的人生がある」と意味深長な箴言が書かれてあった。
美津子の分には「幸いなこと、不幸なことに出会っても良い経験と考えよ」とあった。
ミュージカルは面白く、分かりやすく、シンプルで楽しめた。Buttercup(キンポウゲ)という太った女性が愛嬌の劇である。
帰途車中で「聖者の行進」を歌うとマイクはそれはアメリカでも人気があり、
リクエストするには特別チップが必要という。途中でシナモンケーキをマイクが買って皆で食べた。
フランクリン・ルーズベルトはパナマ運河建設の犠牲者の面倒を見なかったと彼らは非難する。
ワシントンの桜の話も作り話という。
16日
曇り。付近のノマヘーガン公園を散歩した。メープルシロップにフレンチトースト。マイクはセダーの準備に。我々は昼寝。
5時にエジプト料理をご馳走になる。がセダーの週にエジプト料理とは意義がありますね。というとカルラはnice!という。
私はなまず(cat fish)を注文した。美津子は野菜スープと久し振りの肉料理(ラム)を食べた。
美津子のリクエストでトランペットへ再度行く。入場料1人、$10は私が負担。今日は日曜で盛況である。
女性シンガーとバンドの演奏。
カルラによればこのシンガーは昔スチュアデスをしていて、飛行機が遅れた時に彼女が歌って客をなだめたという逸話がある。
帰途はスーパでネギとキャベツを仕入れた。お好み焼きの準備である。
17日
雨、我々のみでのN.Y.行き。ペンステーション構内のレストランでツナクラブサンドを食べた。
グッゲンハイム美術館 月曜とて混みあう。韓国人Nam June Pikeの特別展。主としてTVを利用した展示で興趣に乏しい。
建物はライトの設計でエレベーターで上に上がり、丸い階段で降りてくる。
却って鑑賞しにくい。ルノワール、ゴーギャン、ピカソもある。帰宅して二人でお好み焼きを作る。
材料はキャベツ、ネギ、ニンジン、卵で1枚を4人で分ける。そうすると次々に熱いのが食べられた。
食後は日本茶を飲みながらの会話。
18日
雨、マイクが取引先のFirst Union Bankで$500を自分の口座を通してアメリカンエクスプレスのTCにして呉れる。
兎に角現金を持つことを警戒せよという。初めて11.59分のバスでNew York行き.モルガンライブラリーを見た。
何といってもベートーベン、モーツアルト、シューベルト、リヒアルト・シュトラウス、ストラヴィンキー等
偉人の原譜、ワグナーの脚本等がある。ブリューゲルからルーベンス迄という特別展示がある。
中庭の昼食にラビオリを食べた。ワインはchaldoney.味といい雰囲気といい最高であった。
夜はWestfieldの日本レストラン「Kotobuki」にビール4本持参で行く。みそスープはわけぎが入ってる。
$95は勿論私のサイン。Carlaに洗濯で世話になったのでモルガンで買ったモルガン氏のブレンド紅茶を土産に差し上げた。
早速飲んで喜んで呉れた。マイク達は夜おそくまでセダーの準備。食器も調理台の色までも変わる。
19日
息子の真一に電話した。14日に自宅の水やりに来て呉れたらしい。郵便は誤配されてるが他に問題はなし。
セダー当日、ブランチに近くのベーグル屋に行く。オーナーはヨハネスブルグからのユダヤ人。
彼らは店に出ていなかったので、多分パスオーバーの準備をしてるのであろうとマイクの弁。
このダイニングルームにはかってキューリー夫人やマークトーエも来た事があるという。
中身は工業デザインの展示でがっかりした。セントラルパークの八重桜が満開。6時50分正装してシナゴグに行く。
コンスエロ夫妻も汽車で来るのでカルラが迎えに行く。
パスオーヴァーの特別ミサに6人で参加。Cantourも聴けた。8時から晩餐。記念写真を撮る。
誰でも客を迎えるという精神でマイクがテラスへの入り口を開ける。式次第のHagattahが手渡される。
杯を上げて一口葡萄酒を飲む。酵母の入らないパン(マッズア)を一口塩を入れた水につけて食べる。
horse radishを甘い葡萄やナッツと混ぜたものと共に食べる。これは世の中苦楽があるという教えによる。
サンドイッチにradishを入れて食べる。
杯のワインをスプーンでエクソダス実現までに災いがエジプトに10回襲ったことを忘れぬ為に10回皿に落とす。
セロリーを食べる。
魚のミンチにradishをつけたもの、マッズアの粉をだんごにしたスープ、野菜の煮込み、ビーフ、ターキーと続いた。
コンスエロ夫妻にプレゼントのゆかたを披露。源氏絵巻の風呂敷と共に喜んで呉れた。
コンスエロは源氏を読んだという。彼らは11時過ぎに汽車で帰宅。
20日
Nomahegan公園を散歩した。卵入りのMatza、イスラエルからのplumjam、フルーツサラダを食した。
この日はマイクのjazz音楽教室で、様々なレコードでBuruce,CajunFolkの区別を説明して呉れる。
梢の先の青い空、花は咲き、鳥は歌い、りすが遊ぶ。
緑の中の隣家の白い家。桃源郷の境地であった。午後6日に注文した靴を取りに行く。
滞在中にケイジャン奏者でマイクの友人Buruce Daigrepontが自らのCDを呉れた。
礼状とギフトを郵便でルイジアナの彼の住居に送った。5時半に車でNYに向かう。Andersen Aveの近くで100Stに近い。
ワシントン橋を渡ってすぐのアパートである。スチーブの母エレンの友人レスターと我々4人が招待されてる。
エレンは過去2回主人に先立たれ、レスターとは茶飲み友人である。第2セダーが始まる。
コンスエロは凝ったHagattahを作ってる。詩あり、短文あり、我々も部分を朗読する。Carlaが読めば涼やかである。
料理はモロッコ料理。松の実やブラジルのナッツも食べた。食後台所を見学すると日本の民俗品のポスターを飾ってる。
もう25年も昔からだそうだ。私の11年前の扇子は地味な柄で、コンスエロに花柄の浴衣を着てポーズして貰った。
この瞬間は私の人生の中でも偶然の所産とはいえ歴史的シーンであり、感無量であった。
食卓ではマイク夫妻の日本訪問も話題となった。マイレージをためて2年以内に来るという案である。
Continental航空は中国も地域に入れて呉れるらしい。
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