※ ゴルフ部創立時の思い出 ※ 

2009年1月 京大ゴルフ部50周年記念誌 に寄稿

     ゴルフ部創立時の思い出

 昭和33年春、私は1年間過ごした軟式庭球部を退部した。
前年の秋にソ連の宇宙衛星「スプートニク」が打ち上げられた時には
吉田のテニスコートにいて空を見上げていた。
この春の合宿中に高校の先輩でもあるキャプテンからマネージャー就任への誘いがあり、遂行の意思が無かった。
4月ころ時計台のある建物の廊下にゴルフ部の勧誘の張り紙を見てすぐに参加を決意した。
中田先輩と中庭で挨拶した記憶がある。院生主体の構成で我我は最年少であった。
部長の西原先生は工学部冶金の教授で、指導者であった。
農学部グラウンドで9番アイアンの練習を教わった。
北白川の西原邸でもしばしばご馳走になった。先生のお供で大阪の造幣局も見学出来た。
後年昭和40年代の初めに先生の退官記念コンペの幹事を自ら申し出たことがせめてもの恩返しである。
当初は「部」とは名ばかりの集団であったが、ある日中田先輩から「将来体育会に入るような部を目指し、
学部学生で運営するようにしたい」と言われて本当に驚いた。
森田さんや石部さん、渡部さんなどキラ星の如く居られた先輩が退かれた。
後年奥田総長が中田先輩を「カリスマ的存在」と評されていたが、部の創立に非常な熱意を持たれていた。
先輩のまわりには格別のオーラがあった。
11月に合田キャプテンの下で京阪ゴルフクラブで合宿、
12月のブルーリボン杯など教授方や院生も参加する気楽な部活であった。
世間はというと前年の32年にカナダカップ(現在のワールドカップ)で中村、小野組が日本人として始めて
団体優勝、個人でも中村プロ優勝という明るいニュースで第一次ゴルフブームという現象が生じていた。
34年白浜の合宿で合田さんなどを送り出すと1年次上の内谷さんがただ一人という
陣容だったために急に橋川君や私に運営の責任が回って来た。
中田先輩の配慮で大阪うつぼ公園のインドアで当時京大卒のアマで活躍されていた
片岡、広海、若林の諸氏に指導を受けたこともある。
この年から京都大学が演習林を貸している関係もあり、
上加茂の「京都ゴルフクラブ」でラウンド出来たことは大いなる恩恵であった。
週3回の練習日には欠席せぬように努めた。
ゴルフの安いニューボールが1ケ¥150、当時の貨幣価値は京都市内の下宿代が1畳が¥1.000であった。
6畳で¥6.000である。百万遍の食堂で¥100のランチは高級であった。
ゴルフ部時代の会計、次いでマネージャーとしての思い出は

(1)
 34,35年の2度に亘り弥栄会館で部主催のダンスパーティーを開催した。
 1回で10万円の収益(練習ボール代)をもたらしたが、
 ¥200の所謂「パー券」を売るために部員に迷惑をかけたことは反省している。
 揺籃期の懐かしくも苦い思い出である。
(2)
 35年高校時代の友人が東大のゴルフ部にいたので呼びかけて対抗戦を行った。
 当時新幹線は無く、キャプテンの橋川君と京都駅に迎えに行くと申し出したが、
 自家用車で選手団8人が来られた。
 しかも宿泊は「柊屋」である。翌朝京都ゴルフクラブのティーグランドで
 東大からペナントの交換を申し出あり、勿論当方に準備無く大いに恥をかいた。
 結果は8人のホールマッチ全員討ち死に。
(3)
 35年国立5大学戦で狭山CCに遠征。倶楽部への下り道に「スローダウン」の表示あり、
「之はスイングへの注意のジョークや」と語りあった。
 関東出身の富田君の車スバルがエンストして、一同押して倶楽部入り。
 東北大学は院生も選手と聞いて「そんなんありか」と絶句。
(4)
 35年、開業前の田辺CCからアルバイトキャディーの養成依頼あり、
 ラウンドはロハの条件で即引き受け、生徒をギャラリーにラウンドした。
 空前絶後の経験。数年後に日本一となる戸田プロから指導を受ける僥倖もあった。
(5)
 34、35年の白浜合宿、2ラウンド半は以後社会人入りしてから経験せぬことであった。
(6)
 同じ京都の大学だからと京都ゴルフ倶楽部の肝いりで
 同志社の三好キャプテンなどと友好ラウンドをさせて貰った。
 勿論当方は橋川君と2名である。我我とは球筋の違うホップする玉を脅威の眼で眺めていた。
 上手い人は風格があるものである。


35年は日本中が安保騒動、京大の教室では国際法の田岡教授が
「10年前安保条約締結の際に警鐘を鳴らしたが、誰も見向く人は無かった。
 今回は事前協議や10年毎の更改など改善されてるのに反対とは解せない」
 と講義されていた。まあ、我我は反動学生の最たるものだったのであろう。
 ゴルフ部は発足したとこで何もかも「ナイナイ尽くし」では無かった。
 中田先輩や応援して下さる教授方のお陰で結構恵まれた部活動をしていたことになる。
 後輩には何もしてあげられず後ろ髪を引かれる思いで卒業した。
 餞別に頂いたネームプレートは今でも大切にしている。 


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