| 皆様とお目にかかれることを大層光栄に思います。 私は引退後、中国語の習得と日中の交流史に興味を持ち、勉強中です。 今日はその中の一部をお話したいと思います。 古代漢字で有名な日本の研究者である白川博士によると 日本の天皇家と殷時代の神話の関係が深いと説かれてます。 日本でも16年前に行われた天皇の即位儀礼に「先帝の霊を衣に移す」という儀式があるのですが、 「霊が衣に移る」という信仰は殷時代の信仰と同じだそうです。 中国の歴史でも世界全体を説明する体系的な神話を有する王権は殷だけだそうです。 殷では天帝の下に方神、風神がいるそうです。 「風神」は自由に動いて地域一帯に「方神」の神意を伝達するのです。 「風土」「風景」「気風」という言葉はこの思想に由来してます。古代日本も神話を持つ王権です。 殷の出自が山東半島で、西に進撃して洛陽の近くの夏王朝を滅ぼしますが、 400年後に周王朝に追われて山東の本拠地に戻った際に日本にも 残党が移住して来たのではないかというのが白川先生の推論です。 身体に「刺青」“分身”をするという風習も殷のみで周王朝にはなく、 日本では今でも「刺青」の風習が一部に残ってます。 そして貝や玉を大切にしてる点も日本の古代人と同一なのです。 殷の民族はきっと沿海性の農耕民族であろうと先生は推論されてます。 2)時代は下り、西暦25年に漢王朝が復興されて「後漢」王朝となります。 初代の皇帝は光武帝です。日本はまだ独立前600年前の時代でしたが、 西暦57年に九州の「奴王国」から使者が長安の光武帝のところに派遣されます。 その際に光武帝から印綬が授けられたことは「後漢書」に記載されてます。 1784年に九州の北端の福岡で偶然農民がその金印を発見しました。 私は今から20年前、1984年当時福岡に勤務しており、 発見から200年記念の様々の行事がありましたので余計に親しみを覚えてます。 当時は紙がありませんから「陰刻」です。 一方中国に於いても近年の考古学の発掘は目覚しいですが、 雲南省に於いても1956年に「漢填(dian)王之印」という金印が発掘されており、 専門家の鑑定では福岡で発見されたのと同一の作者の作品と報告されました。 金印のつまみは何れも「蛇」です。1989年に福岡で博覧会があり、 2つの金印が並べて展示してありました。私は博覧会で之らを見て深い感慨を覚えました。 中国の金印は北京の博物館にあります。 実は私は昨年12月に昆明の博物館で複製を見て来ました。 漢字が日本列島に来たという記録はこの金印が最初なのです。 しかし、日本人は漢字を理解出来なかったのです。 有難い文明が伝来してもそれを受け入れる素地が出来上がっていなかった訳です。 西暦239年に「卑弥呼」と呼ばれる女王から魏の国へ使者が来て 同じく金印を貰ってる記録があるのですがこの金印は発見されてません。 「卑弥呼」が存在した邪馬台国と称する国が現在の日本の どこに当たるのかは学問上の大きな謎であります。 この使者には「詔書」が交付されてるし、日本の多くの地名も漢字で「魏書」に記録されてるので、 この頃には一部の人が漢字を理解していたことは間違いないものと考えられてます。 大陸の教養を持った渡来人が顧問のような形で「卑弥呼」を補佐していたと思います。 3)3-5世紀には日本と中国の交流は長江流域が主体で「呉」の国の発音が伝えられました。 日本ではこれを「呉音」と呼んでます。 538年に仏教が渡来すると経典の輸入も行われるのですが、 「経文」キョウモン「衆生」シュジョウ 「利益」リヤク「成就」ジョウジュなどの用語はすべて「呉音」です。 7-8世紀に隋や唐に使節や留学生が派遣されますが「どうも首都の長安の漢語は 今まで使ってきた発音と違うぞ」ということに日本人は気が付きます。 都では「今後は長安の発音を習得すべし」という命令まで出されます。 しかし仏教ではもう遅かった。すでに慣れて日常生活にも使われていました。 そういう理由で日本人は仏教に関する言葉は未だに「呉音」で読みます。 之に漢字の意味から日本人特有の読み方の「訓音」がありますから 日本語を学習する外国人には難しいと同情します。 4)大陸の中国は有史以来終始日本に影響を与え続けます。 唐という巨大な統一国家が西暦618年に出来ますと留学生などの情報から日本にも危機意識が高まり、 645年に「大化の改新」という革命が起きます。支配していた豪族が殺されます。 此の時期に日本の国が出来たというのが通説です。 但しこの革命のことは7世紀初めの日本の書物に書かれてるだけで物的証拠は何もありません。 663年朝鮮半島の戦で唐と新羅の連合軍に日本と百済は大敗します。 そうすると672年に「壬申の乱」という宮廷の革命が起こります。 これも大陸で起こったことへの危機意識の表れと思います。 日本も西暦794年に王朝の都は奈良から京都に移転します。 日本から唐への使節は「遣唐使」と呼んでますが西暦838年を最後に「黄巣の乱」(875年)以降 疲弊した唐から最早学ぶべきことはないという理由で廃止されるまで 約200年の間に16回も派遣される訳です。 9世紀半ばから300年間は日中の交流は商人や僧侶の交流が主体となります。 12世紀に平清盛という当時の最も権勢ある大臣が宋との貿易に意欲を燃やして 当地「神戸」に港を建設しようと山の土を人海戦術で埋め立てを行い、 1180年にはこのオフィスから西北へ10km程度しか離れていない「福原」へ都を移します。 (この時代日本では遷都というのは天皇が住んでるという所が移転したという意味しかありません) 天皇が病気になったりして、僅か半年で京都に都は戻りますが、神戸に都があったという歴史は事実です。 今は標石しか残ってません。平清盛は翌年の1181年に死んで、 港の建設は停止しますが、奈良の大仏の再建に貢献した僧侶「重源」が清盛の遺志を引き継ぎます。 こうして1196年に兵庫の港が出来るのです。中世に於ける世界でも屈指の港でした。 1401年、将軍「足利義満」によって始められた日明貿易は 室町時代に17回90隻が中国に向かったのですが、 「兵庫津」から13回66隻が出帆してます。日本からは銅、硫黄、刀剣、漆器など、 中国からは銅銭、生糸、絹織物、薬品、書画です。中国の港は主として寧波でした。 此の時期日本では銭(硬貨)を鋳造してませんから、明の永楽銭などがそのまま日本で通用してました。 5)私はこの時期に中国から日本に伝来し、又中国に戻り再度日本に渡った文物を紹介しておきます。 東京国立博物館にある龍泉釜の青磁の茶碗です。 12世紀に平家の武将「重盛」が中国から送られたと伝えられる茶碗は 15世紀半ばに足利幕府の8代将軍「義政」の所有となってました。 ひびが入ってるので代えてほしいと中国に送るのです。 しかし、代品がないから鉄の鎹(かすがい)で補修して日本に再び送られて来るのです。 鉄の補修部分が馬にとまる「蝗」(いなご)に似てるので 「銘馬蝗絆」という有名な茶碗になってます。 一つは日本と中国を往来した鎌倉の建長寺に保存されてる13世紀の南宋の僧侶 「蘭渓道隆」という四川省出身の僧侶の肖像画です。この人は建長寺の開祖です。 之を孫弟子の「元寿」という人が携えて当時の元に渡り、 「霊石如芝」という僧侶の賛を貰って来るのです。 航海技術が未熟な頃に文物が東海を数回渡ったという意味で非常に興味深く思います。 6)日本の鎌倉時代に1264年、1278年の2度に亘り元の世祖 クビライが2回九州の博多に攻めて来ます。 2度とも台風が吹いて全滅する詳しい話は省略しますが、 1278年には元は主力の「東路軍」と「江南軍」の二手に分かれて攻めて来ました。 「江南軍」14万人は実は宋軍の残党なのです。 フビライとしては残党が戦いで滅びれば正に1石2鳥です。 日本もそれは分かってますから、蒙古や高麗人の首ははねましたが 「江南軍」の漢人捕虜はすべて許したそうです。 麗しい話ではありませんか。 しかし遺憾なことにこの台風は第二次大戦の際に「神風」と称して軍部の宣伝に利用されます。 日本が戦争に巻き込まれれば有利な「神風」が吹くというのです。 7)皆さんは神戸に来られたのですから孫文のことを話しておきましょう。 辛亥革命を1912年に成功させた孫文は1924年11月に神戸に立ち寄ります。 ここから5kmも離れてない女学校の講堂(跡地に兵庫県庁が建てられた)で 数千人の日本の観衆に有名な演説をします。「大アジア問題」という演題でした。 植民地帝国主義の欧米列強は武力文化、中国でいう「覇道」以外の何者でもなく、 覇道文化に対立するものは仁義道徳を本質とするアジアの「王道文化」であると力説します。 そして今後世界文化の前途に対し、西方覇道の手先になるのか東方王道の守り人(干城) になるのかは日本国民が慎重に考慮すべきことであります。 ――と結び大層観衆に感銘を与えました。孫文はこの演説のわずか3ケ月後に逝去しますので 「孫文の日本への遺言」と言われてます。 日本のその後はご承知のとうりで、不好意思です。 8)中国の文化を学んだ日本には中国と同じ漢字が当然多く存在します。 私も中国語の単語が分からない時は日本で使う単語を中国語の読み方で使えば大抵よく通じます。 例えば「日本料理」「結婚」「離婚」ですね。 日本語と語順が違って「和平」と「平和」、「命運」と「運命」という差異がある場合もあります。 日本語の「帽子」ボウ“シ”や「椅子」イ“ス”や「餃子」ギョウ“ザ”はそれぞれ伝来された際の 中国語の「子」の発音に近いということは面白いことです。 「帽子」は唐代に、「椅子」は宋代に日本に伝来したらしいです。 「餃子」の“ZA”音は中国語と一番似てますね。「餃子」が比較的最近伝来された単語であると思います。 9)最後に中国語を学んでいて面白いことを発見しました。 「紅顔の美少年」という使い方は唐の漢詩にあります。 例えば劉希夷の詩に「此翁白頭真可憐 伊昔紅顔美少年」とあります。 中国では変化して現在では女性の美しさを指すのですね。 日本では唐時代の使い方を踏襲して少年の美を表すときに使用します。 「瀟洒な」という表現も中国では男性の性格の良さをほめる言葉です。 日本では「瀟洒な建物」というように「垢抜けしてる」という意味で、男性との関連は全くありません。 「傍若無人」という熟語は日本では全く悪い意味にしか使われません。 中国では悪い意味でも使いますが、「自由奔放に振舞う」という良い意味でも使うのですね。 日本は島国ですから絶えず周囲の人の評価を気にしながら生活しているのかも知れません。 今日は私が日中両国の文化交流について平素考えてることを述べさせて頂きました。 (完 平成17年5月) |
| BC1500 殷王朝成立 1000 周建国 AD 25 後漢建国 57 光武帝授奴国王金印 239 魏明帝授卑弥呼金印和親魏倭王称号 600 遣隋使派遣 645 大化改新 中大兄皇子等滅蘇我氏 618 唐建国 663 白村江之戦、日軍為唐、新羅水軍所敗 672 壬申之乱 大海人皇子撃敗大友皇子 710 遷都平城京(奈良) 794 遷都平安京(京都) 874 黄巣之乱 894 廃遣唐使 1167 平清盛任太政大臣 1180 福原遷都(神戸)同年遷都平安京 1196 兵庫津完成(神戸) 1253 建長寺興建 1271 忽必烈建国(元) 1274 元襲来(第一次) 1291 元襲来(第二次) 1368 明建国 1394 足利義満任太政大臣 1404 日明貿易開始(訂勘合貿易、永楽条約 ) 1483 足利義政在京都造銀閣寺 1911 辛亥革命 中華民国成立 1925 孫文逝去 |