※ 雲南のたび ※ 2004年12月
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  雲南のたび

 今年(2004年)の夏に北欧へ行こうと調べにかかった。
ノルウエーのフィヨルドなどの見物である。
ところがスエーデン、デンマークなどは私が知ってる歴史に乏しい。
たかだかハンザ同盟くらいなのである。
そこで当面6月に義父がかねて萩見物したいとの希望あり、両親との山陰旅行を優先した。
天候も良くて之はこれで成功であった。教会の定期演奏会が11月23日に終わり、
美津子の茶事が終わる12月2日出発で雲南省のシャングリラに出かけることにした。
漢字では「香格里拉」と書く。
映画「心の旅路」の原作者であるジェームス・ヒルトンの「失われた地平線」という小説にある
チベットの周辺の地域が1996年頃から急に当地がその小説に描く「桃源郷」に比定されるということで、
遂に中国の地方政府もチベット族の自治州の首都の名前を2002年、
従来のチョンテイエンからシャングリラと変更した。
この名で有名なホテルチェーンはマレーシア系の華僑が命名したものであり、ルーツは一緒である。
問題は海抜が最高で3,800mという地域なので「高山病」である。
対策はマスクの用意と美津子が鉄分の薬を10日前から服用し始めた程度。
ネットの検索でもひどい症状に悩まされた人はいない。
ツアーコンダクターの花崎さんも「今まで事故なし」という。
個人差があるのでこればかりは祈るのみである。
10月24日に受けた中国語のHSK試験の結果がなんと北京から12月1日に送られて来た。
目出度く4級に昇級していた。

2日 
晴天である。MKタクシーは12時40分に迎えに来た。
神戸大学の学生2名、雲南の地質調査に勉強に行くという。
三条町からなんと三菱の後輩の武富夫妻がアメリカ西海岸に行くとて乗り込んで来た。
今回のツアーコンダクターは花崎さんという可愛い女性で、六甲アイランドに住むという。
後で聞いた話であるがシカゴにも留学していたそうで、32歳の有能なリーダーであった。
東方航空とJALの共同運航の便で30分遅れて出発。上海で1時間半の待ちがある。
11月までだと直行便があるそうである。昆明到着は遅く、22時45分、現地ガイドの李勇さんが迎えた。
彼は当地生まれで、国営企業メーカーに勤めていたが96-98年千葉県の
市川市で技術研修に派遣されていた際に企業は倒産して、
99年から雲南航空の系列の旅行会社に勤務したという経歴である。
同君とは9日に別れるまでしばしば中国語で会話出来た。

3日 
今回、天気はすべて晴天に恵まれた。(インターネットの調査では12月6日は雨であった。)
従って今後天気については記述を省略することとする。朝にホテルで交通地図を購入した。
円高のお陰で1万円で798元のレートである。手持ちの4200元を持参して、
5万円両替して同じくらい残ったのでクレジットカードで求めた昆明博物館の
前漢時代の鼎の複製品を除けば5万円の小遣いであったことになる。
ホテル周辺を軽く散歩した。雲南省の首都だけあって、人口は360万人、流民も多く、
犯罪も多いらしい。事実我々が歩いたホテルの近くの陸橋も午後11時以降は危ないという。
朝市内の「円通寺」に行く。宋時代に創建された寺で、大乗、小乗、ラマ教が共存している。
李さんは「町のケッコウ」という。漢字では「結構」と書き、
中国語では「ジエコウ」であるが、日本人には通じない。
お節介であるが李さんに、「町の構造」と言えばどうかと提案した。
ラマ教の寺院を壊している最中で、李さんは「文化財への無知である」と憤慨する。
昆明の旧市街は近年すっかり破壊されて復旧するのには皮肉にも
欧米人が旅行で写した写真でしか分からないという。
李さんは「昔の写真は貴重なのです」という。町を代表した二つの門もこうして再現されていた。
我々の泊まったホテルの近所にも大きな復元された寺があったが、誰も訪ねて行かぬらしい。
次いで「翠湖公園」に行く。シベリアから飛来したユリカモメが群舞する。
餌のパンを1元で買う。多くの中国人客が見物してる。湖の島に「ニエアル」の像がある。
ニエ(耳を3つ書く)アル(耳)は1912年昆明生まれで音楽家、
35年亡命先の日本で現在の中国国歌〔義勇軍進行曲〕を作曲した。
(1978年正式になった)ところが亡命した35年に藤沢海岸で溺死したのである。
そのような関係で昆明と藤沢は姉妹都市である。私は深い感慨でこの像を眺めた。
日本で中国の国歌が書かれたのかと。
とにかく雲南省の面積は日本とほぼ同じ39万平方キロ、人口4100万人、
タバコとお茶と鉱物の産地であること、
省政府は文化財を壊しては学者に反対されて復元する愚行を繰り返してること、
省長も汚職で逮捕されるなどご他聞にもれず人民の不満もあることが理解出来た。
午後は空港から大理へ向かう。昆明が標高1900mで、大理は2100mである。雲南省の86%は山らしい。
56と言われる少数民族は中国全体では8%の人口比率である。それがここ雲南では36%である。飛行機からの
眺めも成るほど山ばかりであった。大理とは大理石の産地である。ジ(三ずい偏に耳)海に面している。
町の西に「蒼山」がある。最高峰は4123mの馬龍峰である。
丘陵の中腹にある飛行場から見るジ海(中国では湖を海ということも多い)はまことに美しい。
よほど水が澄んでるらしい。この湖は最終メコン川に流れる。
バスは湖の南にある下関と呼ばれる今の町を過ぎて北上し、「崇聖寺」に行く。
唐時代からの寺で「三塔」で有名である。この地方の歴史は733年に「南詔国」が唐朝の承認で独立した。
ジ海の西にある「大理古城」を首都として強大な国となり、玄宗皇帝時代には大戦闘で唐軍が大敗してる。
詩人の白居易は戦いの無益さを歌って「長恨歌」を詠んだ。まさに唐の疲弊はこの南詔国との戦争に始まったのである。

この国はその後最盛期を迎えて836年に16層70mの千尋塔が建立された。
両サイドに2つの塔があるが、これは南詔国が902年に滅びて937年に出来た「大理国」時代のもの。
高い塔は周囲に砂山を築いて作ったそうである。驚いたことに塔には基礎工事がないそうである。
小さい塔は地震でやや傾いてる。3つの塔が寺の池に映ってる様が美しい。
因って「倒影公園」という。
大理からのガイドは白(パイ)族の衣装を着た可愛い女の子で「張さん」という。
李さんから聞くと雲南の子は学校でまず雲南語を習うそうである。
その後に我々の習う「普通話」を習う。張さんの普通話はキレイである。私も半分は理解出来る。
歩きながら彼女に「貴女は説明してくれるが、正直我々には分からない。
しかし貴女の発音は美しいのでまるで音楽のようであるし、
貴女が一生懸命説明してくれるのは分かってます。」と伝えた。
もちろん「謝謝!」である。鐘楼は1997年香港返還記念に作られたそうである。
ここからの眺めはキレイで、屋根の風景をカメラに収めた。バスで白族の土産物屋に行き、
「藍染め」品などを求めた。このような買い物は楽しい。次いで「胡蝶泉」に行く。
春には泉に胡蝶が乱舞するらしい。合歓の木がある。「郭沫若」さん揮毫の「胡蝶泉」の字が彫られている。
もう時間も6時ころであるが中国でも西のミャンマーとの国境に近いこのあたりはまだ明るい。
大理国は1253年にフビライに攻略されて平和裏に降伏したらしい。この時期に行政は昆明に移る。
約300年の歴史の感慨に浸れた。
「大理」の「理」とは總経理というようにマネージするという意味である。
「南詔文化」を伝えるという意味で「大理」と名前がつけられたらしい。殊勝な命名である。
白族は人口160万人という。張さんに幸多かれと祈る。
バスはこれから麗江に向かう。皆疲れて寝てるが私は眠れないので窓外の景色を見ていた。
すると大理石の石切り場らしきところがあるのが見えた。さすがに広大なものである。
次いで空を見上げると「満天下の星」である。付近は荒涼とした荒地。
星雲のような星の集団をわが人生で初めて見れた。麗江に泊まる。

4日 
今日は3400mの地点に行くので防寒スタイルで8時にホテルを出た。
途端に「玉龍雪山」5,590mの秀麗な姿が見えた。
頂上の姿から最高峰は「扇子トウ(コザト偏に走)」という。ここでのガイドも女性の張さん。
ヤクのたむろする牧場を見ながらリフト乗り場の「雪杉坪」麓に到着。ここで1時間待つ。
周囲は中国人だらけ。中国語で交流してると若い娘さんがワザワザ私と話ししたいと言う。
英語が話したいらしい。彼女は北京の幼稚園の先生で同僚10人と遊びに来てる由。
園児は500人いるそうである。主人は電気技師である。
彼女はエンジニアーは分かるが中国語で「電気」とは英語でどういうかと聞く。
私がエレクトリックというと「そうだ」という。
水泳が好きだというので「倶楽部に入ってるか」と中国語で聞くと
「分からない」というので「CLUB」とスペルを言うと入ってるそうだ。
まことに珍妙な会話であった。32歳である。
親戚が東京に住んでるけれど自分は両親と離れたくないので日本に行きたくないという。
リフトがもう来たので中国語で「急がないで」の「別着急」というとそれは英語でどういうかと聞く、
「Don't hurry up」というと肯いて別れた。リフトは2人乗りである。
美津子と雄大な眺めを見れるラッキーさに感謝した。美津子は乗り場で45元の酸素ボンベを買ったが結局使用せず。

到着後「雪杉坪」の遊歩道を歩くが、急ぐと心臓がドキドキしてくる。
口をすぼめて努めて深呼吸した。玉龍雪山は処女峰である。
この地方の山は崩れやすくて、ここより北西の梅里雪山では
1991年1月に日中の登山隊17人が遭難している。
遊歩道の突き当たりの広場ではイ族の女性たちが踊っていた。観光用であろう。
リフトを降りてからも眺めの良い地点でこの山の眺めを写真に収めた。
食後は麗江の「玉泉公園」に行く。この町は古代シルクロードの起点であった。
ナシ(納西)族の町で、独自の「東巴文字」を持つ。美津子は習字の印鑑をメノウの材料で作った。

公園の池に映る玉龍雪山が美しい。
これだけでも値打ちがある。
池には湧水が分かるくらいに湧き出てる。

町の中心の「四方街」
で少し自由時間が有り、我々は茶館でジャスミン茶を飲んだ。
夕食後は「東巴宮」でナシ族の音楽舞踏ショー見物である。牧畜民らしいダンスであった。

5日 
昨晩の夕食の鍋料理を食べ過ぎたのか、夜中に胃腸薬を飲んだ。美津子は吐いたらしい。
麗江からのバスから何時までも秀麗な玉龍雪山が見える。
60km北にハバ雪山(5396m)があり、元は同じ山脈であったらしい。

2つの山の間に今日の目的地「虎跳峡」がある。
それまでに「長江第一湾」を見る予定であったが、我々も道路に車両が横転してるのを見かけたごとく、
道はところどころ凍結していてどうも車両事故があったらしい。丘から遠望するに留まった。
この地方は「三大河並流」という世界でも珍しい地域で、ミャンマーに流れるサルウイン河、
タイからベトナムに流れるメコン河、と長江(このあたりでは砂金が取れるので金沙江と呼ぶ)である。
このFIRST VEND のお陰で長江は東に流れて中国の文明が開けたという意義がある。
従って中国人は幼い時に「長江第一湾」を習うのである。
李さんによれば雲南省の人たちも雪を見ることは少ないという。
地球の温暖化で段々と万年雪の地域は狭くなってる。
途中からチベット族のガイドの和さん(漢族名)が乗車した。民族衣装のスカートを穿いてる。
中国語で会話した。彼女は朝シャングリラから2時間かけてバスで来た。
民族の名前は「央宋拉ムー(女偏に母」)という。私は以後「ヤンソン小姐」と呼んだ。
「虎跳峡」では長江に沿って平坦な舗装した道を歩く。
美津子も体調が良くないのに片道35分をよく歩いた。
落石事故も多いのでマイクを持った保安要員が各所にいる。
激流は雨期(5―9月)では水位が高くて河の中の大きな石も見えなくなるほどという。
水に悩む北の中国人には羨ましいような眺めである。
対岸のシャングリラ県からでも見れるのであるが、最近落石事故があり、麗江県からの鑑賞となったらしい。
昼食に美津子はおかゆを所望した。バスは徐々に高度を上げて標高3000m地帯を走る。
周囲は牧場である。ヤクや牛や羊など。

午後4時半にバスはシャングリラに着いた。ラマ寺院の「松賛林寺」である。
美津子の手を引いて階段を上がろうとすると急に美津子は気分が悪くなってバスで休養することとなった。
17世紀の後半ラマ5世の時に創建された寺院で、今も僧侶700人が修行している。
中国人のしてるごとく喜捨して線香と数珠を貰い、美津子の病気の快癒を祈った。
壁画は日本の地獄極楽図に似ている。庭から遠望した。チベット人の住んでるところは空が青いという。
ここもそのとうりである。葬儀は最高が塔葬であり、多くは河に流す。従ってチベット人は河の水を飲まぬという。
鳥葬も位の高い人だけらしい。
土産物屋でインターネットで調べておいた高山病に効く「紅景天」という漢方薬があるかと問うと「ある」という。
100グラムを20元で求めた。水晶のペンダントトップが2つで110元であった。
ホテルに帰ると部屋に酸素の吸入器がある。フロントで50元のカードを買って、従業員が部屋でセットしてくれた。
2時間有効という。使えば表示板の50から使用分の値が下がってゆく。
この調子なら明後日の朝まで静かにしてるかぎり大丈夫である。

6日 
美津子のみ不参加で一行9人小型バスで白水台に向かう。
私はペットボトルに紅景天を煎じたお茶を入れた。悪路である。松の木が多いが、
当地は松茸の大産地で日本にも沢山輸出されてるという。松茸長者もいるそうである。
道は一部凍結してる。対向車は1台もない。よくこのようなところに道が出来たものと感心した。
地図で言えば昨日の「虎跳峡」の北になる。高度は2500mくらいになる。
2時間強、バスから降りて遊歩道(桟)を登る。天気が良いので暑いくらいである。

眼前には4000m級の山が聳える。ここの良いところは周囲の「大自然」である。
写真にはとても収められない。石灰石の棚がある。水が流れている。
靴がぬれるが致し方ない。ここはトンパの聖地でもあるらしい。
ヤンソン小姐に聞くと彼女は今年ここに案内するのは4回目という。
中国人観光客も来るそうである。昆明を出てからは日本人に会わない。
小屋のようなところで昼食。素朴な田舎料理であるが日本人の口にあう。
食後は花崎さんから提案があり、徒歩が楽な「属都湖」にするかということであったが、

大勢は原案の「碧塔海」である。3800m。中国の高い地点を極めたいという人が多数である。
因って北に向かう。
道の中央に椅子が置いてある。
風致地区への入場料30元を徴する料金所で係官が人数を数える。
李さんが携帯電話で美津子の調子を尋ねてくれた。現状維持らしい。

バスを降りると向こうに高い山が見えるので駐車場の中国人に聞くと「天宝雪山」だという。
日本に帰国して調べると4750mの山であった。2時半に丸太で作られた遊歩道を下る。
李さんは4200mと言ってたが表示は3800mであった。

富士山の頂上と同じである。木には「さるおがせ」という寄生植物が沢山ついてる。
異様な風景である。
ネットで調べた馬は今日はいない。トレッキングである。周囲は原始林。
ヤンソンさんは遊歩道より普通の枯れ草の上を歩くほうが楽という。
辿り着いた湖は無人。ボートもない。帰途は馬が2匹いて35元であるが
津熊夫人と最長老69歳の木村さんに譲った。
登り2kmのきつい坂であったが李さんがついていてくれて、
中国語で会話をしながらどうにか4時半に駐車場に到着した。
精神安定剤を持ってるが、これは心臓の働きを鎮める
ので使用してはいけないのである。我ながら良く頑張った。
食後和歌山からの客、杉浦さんの提唱で簡単に自己紹介した。
社交ダンスなど多彩な趣味の人たちである。夜部屋が寒くて風邪を引きそうで薬を飲む。

7日 
大理からの運転手趙さんには5日に日本からの土産を渡した。
シャングリラ空港で別れる。9時25分発が機材の点検で2時間遅れた。
隣の中国人と話した。南京からの作家の一行で、男性は56歳である。
11月16日に松岡先生からの依頼で奈良を案内した「曲教授」の名刺を見せたら名前はご存知であった。
日本の鉛筆を連れの女性も含めた3人に渡すと返礼に胡蝶の栞を呉れた。
チベット族に関する小説を書いてるらしい。
部屋で見たTVの劇画のテロップが繁体字なので質問すると「香港製」だからという。
政府が企図してる北京発の新幹線計画については知らなかった。紅楼夢や三国志演義も話題になった。
飛行機の窓から雲の上に聳える玉龍雪山、ハバ山が良く見れた。

高速道路で「石林」に着く。
太古は海の底であったが海底の石灰岩が海水に浸食されて
石柱となり地殻変動で地上に出て風化したものである。
遊歩道は整備されている。樹木やブーゲンビリアの花との調和も良い。
時間が遅いのか客も少なく、美津子も元気回復して楽しい散歩であった。
展望台からの紅葉も夕日に映えていた。
帰途お茶の店で「茄苦茶、紅茶、プーアール茶、烏龍茶」を試飲した。
茶館で蒙古族とリス族の少女を撮影。夕食は「過橋米線」という当地の名菜を食べた。
科挙の勉強中の夫に庭の橋を渡って食事を届ける妻が
「冷めぬように油の皮膜を工夫した」料理という故事がある。風邪にならぬように気を遣った。

8日 
朝から昆明の湖「ティエン海」の西岸の「竜門」に行く。霧である。
18世紀後半に「呉来清」という道士が15年もかけて彫刻した崖の中腹の洞窟である。
弟子も引き継いだ。最初は電動車で入り口に着く。

「達天閣」には魁星という北斗七星の第一星の神様があり学問の神である。
右に文昌(北斗七星の他の六星)と左に関羽像がある。霧で海は見えない。
寺の売店で書画を見た。午後から市の博物館に行く。
無料で李さんという女性が上手な日本語で説明して呉れる。2500年前の春秋時代からの歴史がある。
「楚」の支配する地域であるが当地は「刑蛮の地」である。古くから青銅器が生産されてる。
中原から到来した「鉄の剣」が金の鞘で保護されてる。金より鉄のほうが貴重であった。
銅の太鼓、貨幣であった貝の貯金箱、李さんの説明は簡略で要を得ている。
博多で発見された例の金印の兄弟の印「ティエン王之印」は北京に真品があり、当地のは複製。
博多の金印と同じ製作者の印とされていてつまみは同じ「蛇」である。1956年出土。(博多のは1784年出土)

階上で恐竜の模型など見て、
さて、李さんは変身する。
玉の彫刻の棚を説明して、「さて、皆さんいくらの値をつけますか」と問う。
私は瑪瑙で120万円くらいと答えた。「12点全部でいくらですか」との問いには1000万円くらいと答えた。
李さんは「国の承認を得て全てを120万円で売れます」という。皆唖然とした。私は漢時代の鼎の複製を買った。
1500元である。帰国して自宅で香を焚いた。馥郁とした香りに満足した。
ホテルでの自由時間、美津子は四国の藤田さんと外出、私は風邪気を失くするために静養して
5時から街に出て茶商で昨日見た85度以上のお茶を入れると龍の色が赤に変わる茶道具を購入した。
中国語を話してると店員が寄って来る。クリスマスも近いしどう過ごすのかなどダベリながらホテルに帰った。

9日 早朝6時半にホテル出発。日本には2時45分到着した。
快晴である。MKタクシーもすぐに出て4時半に自宅に帰着した。


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