※ 2009年 北イタリア鉄道の旅 ※


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 1989年7月、
三菱から転職する際の休暇を利用して11日間、ポンペイやフィレンツエ、
ローマ、ベニス、アッシージ、ミラノなどを団体旅行した。
爾来イタリアには縁がなかったが美津子がイタリア語学習を始めて検定試験にも
挑戦していること、京大のクラスメート津田君が過去に15回、
通算2年もイタリアに滞在している経験から指南を受けたことで
4月9日から23日までを旅程に組んだ。
13泊のうちミラノの4泊、マントヴァの3泊は津田君推薦のホテルとしたので
現地で自由に決めたのは6泊のみであった。
私はイタリア語の文法は一切勉強せず、
1-1000までの数字と簡単な旅行会話を準備した。
旅の地域もミラノとベニスを結ぶ幹線からマントヴァ、クレモナはやや外れるもののパドヴァ、
ヴェローナという観光都市に宿泊、ガルダ、マジョーレという氷河期に出来た湖を訪問した。
スリ被害に遭わぬよう山登りのジャケットを好日山荘で購入して羽織った。
今回は旅のエピソードを何点か初めに摘出して記述します。
パソコン時代イタリアの列車の時間も自宅で調べられる時代となりました。

「飛行機遅延事件」
 今回はHISで航空券を手配したが、オランダ航空ではミラノの到着が
夜9時を過ぎるので、7時に着くルフトハンザ航空を希望していた。
希望通りハンザ航空で出発出来たものの機材の積み込み遅延とかで1時間遅れ、
当然フランクフルトでは乗り継ぎ便は現地時間の
4時半に出て仕舞って5時間待ちの9時半の便になった。
ミラノリナーテ空港行きは1名しか空いておらず、
旅なれた日本女性が予約してしまった。
ルフトハンザ航空は見舞い金として30ユーロの食事券を呉れる。
ビール2杯とスープ、野菜サラダなどを注文した。
関西空港で買った東野圭吾の推理小説が面白く、退屈をしのげた。
ミラノのホテルフローラにはルフトハンザ航空事務所で電話を借りて遅延の旨を伝えた。
アンジェロという従業員が「今日中に着くんだろう、問題ないよ」と言って呉れる。
ミラノ・マルペンサ空港には11時前に到着。
荷物を待つ間に美津子が空港から携帯電話で
12時を過ぎる旨連絡出来たことは良かった。
同じイタリアでも国番号 +39番が要った。
国鉄ミラノ駅に到着してからホテルを見つけるまで苦労した。
原因は連絡のプルマンバスが中央駅のはるか横に着いたことである。
中央駅の正面に出てから探せば良かった。トリアニ通りは昼間でも分かり難い。
深夜のミラノでスーツケースを押しながら数人にホテルへの道を尋ねたが、
最後の人は日本語を解し、フローラの位置も明確に分かる人で良かった。
アンジェロ爺さんは1時にかかわらず、門口で待っていてくれた。
翌日日本からの土産を渡して謝意を表した。

「両替事件」
  今回、手持ちのユーロは400E(ユーロ)で、残る1750EはCITY BANKで
アメリカンエクスプレスのトラベラーズチェックとした。
10日の朝、ホテルの近所のポポレール・ミラノ銀行で1,000Eを両替しようとしたら、
若い行員がOKと軽く言いながら、
途中で「復活祭休暇だから来週の火曜まで出来ない」という。
12日が日曜、復活祭で翌日も休みであることは
当初から了解していたが10日はまだ金曜ではないか。
已む無く14日(火曜)パドヴァで両替することにした。
14日当日、宿泊したホテルアルカソンが教えて呉れた地元銀行では、
女性行員が「バンクオブアメリカへ行きなさい」と言った。
バンクオブアメリカを探すが、見当たらない。
別の銀行で尋ねると、今はその銀行はないという。
先の行員の乱暴な応答にあきれる。
駅のインフォメーションでは「イタリア銀行に行きなさい」
ということで大体の地域を地図で教えてくれた。
商店の人などに聞き、11時半くらいにバールに入って休憩。
そこのウエイトレスも客に確かめてくれてすぐそこだという。
なるほど我々の休憩した場所からすぐ近くにイタリア銀行はあった。
ところがここではおじさんが「リラの両替か」という。
TCだというと、傍にいた親切な人が案内してくれた。
「ANTONBENETO」とある。ここでは1日500Eを上限に替えてくれる。
驚いたことに10日のポポレール・ミラノは既に裏にゴム印を押しているので、
アントンベネトでは替えてくれない。
新しいTC500にサインして漸く現金500Eを入手した。
手持ちの150Eと合計すると何とか旅行は出来る額である。
観光して夕方徒歩でホテルに向かっていると美津子がポポレール・ミラノの支店が
橋の袂にあることを見つけてくれたので翌日行くことにした。
美津子はその夜すぐに両替してくれるかどうか心配で寝られなかったという。
15日朝スクロベーニ礼拝堂に行く途中で銀行に入った。
ミラノに電話照会していたが問題なく1000Eを手数料2Eで両替してくれた。
俄然現金は1600Eとなった。
因みにこの旅行では外貨支出は現金1050E,カード2000Eで38万円となった。
不思議なものでANTONBENETOのオフィスはその後続けて2つ街で見かけた。

「スカラ座事件」
  ミラノ到着後に私が20日7時30分 スカラ座でメゾソプラノのコンサートがあることを発見、
美津子も一度見たかろうとドウオーモの地下のチケットオフィスで70Eで購入した。
当日20日夕方行くと「歌手の病気で9月まで延期」とある。
チケットを郵送すれば自宅へ現金で送金されるが、
煩雑なので21日にマジョーレ湖の観光帰途立ち寄って払い戻しを受けた。
幻のスカラ座であった。
窓口で「ミディスピアーチェ」(残念)というと二人の男性職員が笑った。
本来彼らが言わねばならないことだが。

「乗り違え事件」
  16日ベニスからの帰途である。もちろんご当地では
「平日のみ運行」という列車があることは知っていた。
午後5時半ころパドヴァに帰るのに2本列車がある。
9番ホームから便利な方に乗った。ところが30分して通過する駅名が
違うのに気がつき、客にパドヴァ行きか問うと「違う」という。
飛び降りてプラットホームの時刻表を見ると5分後にベニス行きがあるではないか。
救世主のような列車で、ベニスの一つ手前の分岐点メストレに戻れた。
私が予定していた便は注記を見ると「祝日のみ運行」の列車であった。
1時間遅れでパドヴァに戻れた。不幸中の幸いというべきであろう。

「地下鉄事故事件」
  20日歌手の病気でホテルに帰るべく地下鉄3番に
乗ろうとすると改札が閉鎖され「事故」という。
美津子が客に聞くと「人が刺された」ようだという。
もちろんタクシーには長い行列である。
私はミラノの地図は頭に入っていたので、
取りあえず北に向かうトラムという軌道電車に乗った。
美津子が客に聞くと「皆が降りるところで降りて、
緑の2番線で地下鉄に乗れば良い」という。
カドルナ駅である。小雨の中で通行人に聞きまくって
カドルナから中央駅に戻れた。
この地下鉄は混んでいた。我々は始めての路線で、
少々不安な様子をしていたのか、スリにねらわれた。
女性が大きなカバンを肩からさげて、カバンと自分の身体の間に右手を入れ、
もう一方の手はカバンの上にのせ、押し付けてくる。
変な感じがして、「気をつけて」というと、彼女はスっと身をひき、
そ知らぬ顔をしているから、じっとにらみつけてやった。
もう一人女性がいて、二人とも次の駅で降りていった。
降り際に彼女は美津子の肩をたたいて「心配しなさんな・・・」と言った。
事故のことはTVでも確認出来ず。フローラの主人も知らないという。
20日は朝に3Eで「地下鉄・トラム1日有効券」を購入していたので良かった。

「スクロベーニ礼拝堂予約」
 自宅からインターネットで予約したが、不成功。メールで催促すると
「コールセンターで予約して欲しい」というメールが来た。
FAXでの申し込みにも返答なし。
規定では鑑賞の72時間前に予約し、当日は25人以内のグループでヴィデオを
15分見て体温を調整して入るという厳格さである。
ミラノのホテルから携帯電話で予約出来た。大いに安心出来た。
15日の11時、当日に来ても午後1時に入れたようであるが、
前日の14日に下見に行き、チケットを入手出来た。

※※※ さていよいよ 北イタリア鉄道の旅の始まり ※※※

9日
 MKタクシーが自宅に迎えに来た。
深江インターで他の客と待ち合わせて合流する。深江から空港まで40分で行ける。
カード会社の待合室「六甲」は何時もと違う場所にあった。2ケ所にあるらしい。
飛行機の座席は窓側に2席しかなく大きめであるように思えた。前の画面で映画が見られる。
封切り中の「オーストラリア」等も見られた。飛行中は室内が寒いくらいであった。
携帯電話が通じたのは現地到着後6時間くらいである。前述のように+39番が要る。
スイスアルプスの上空通過では全く下界に光が見られない風景もあった。
ホテルフローラで寝たのは1時20分であった。

10日
 ミラノは快晴。以降16日ベニスで小雨があるまで天気に恵まれた。
朝、大丸で購入した「携帯湯沸し器」でルフトハンザ航空のおにぎりと持参の味噌汁を食べる。
ホテルの朝食も果物ジュースとクロワッサンがおいしかった。
中央駅で時刻表(オラリオ)やマントバ行きのチケットを買う。
紙に予め行き先や列車番号を書いて渡した。帰りの空港行きバス乗り場の位置も確認した。
ポポレール銀行の後、第一の希望地サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティロ教会に行く。
地下鉄はミソーリで降りる。1480年ころに当時の建築家ブラマンテが再建した。
鐘楼は11世紀のものでミラノ最古。小さい教会ながら、心静まる、素敵な空間であった。
ここからドウオーモまでは近い。500年かけて建てた建築は凄い。
ドゥオーモの屋根に美津子はまだ登っていないというので5E払って100mの階段を登った。
20年前には北の山が見えたが今回は確認出来なかった。尖塔の彫像は近くで見ると迫力がある。
エマヌエル2世通りは懐かしい。ここのテラスで初めてのイタリア料理を食べた。
スープ、ピッツア・ボンゴレ、ワイン、水 57EはTCでもカードもダメ。
「世界同時不況」を感じた。スカラ座のチケットを購入し、スフォルツア城に行く。
ヴィスコンティ家の城塞の跡に1450年にスフォルツア公爵が建築した。花蘇芳が美しい。 
以降スペイン(1535-1706)、オーストラリア(1706-1796)
フランス(1796-1814)、再びオーストラリア(1814-1859)に、
占領されていた時代は兵営として利用されていた。
ここの美術館はパスした。センピオーネ公園で休憩。
昼のワインも影響して疲れたので地下鉄を乗り継ぎホテルに帰着、
9時まで寝る。夜食は部屋で飛行機会社のパンと持参の紅茶。
ホテル・フローラはシャワー、小さなバスタブ付きシャワー、ツイン、必要なものは全てあるが、狭い。

ドウオーモ広場のヴィクトルエマヌエル2世像

ドウオーモ

ドウオーモの上部

ドウオーモの上部

スフォルツアンド城



11日
 8時15分発の普通列車「レジョナーレ」でマントヴァに向かう。
大きなスーツケースはホテルに預けて私の黒いゴルフ用のバッグと
美津子の桃色のバッグを重ねてキャリーで引っ張る。
私の下着や靴下は一部100円ショップで購入して使い捨ての方針であったが、
品質も良く、全部持ち帰った。
生活を見直さねばと思った。備えつきの刻印器(オブリトラトリーチェ)で切符に刻印をする。
切符の有効期間が2ケ月もあるので当然のことである。列車は始発で空いている。
のどかな旅の始まりである。
イタリアの列車の運行は時間が正確である。以後20数回乗ったが遅れたことは無かった。
美しいロンバルデイア平野を走り、定刻にマントヴァ着。ホテルビアンキは駅前で車の往来が激しい。
ここは95E。シャワーとバスタブ付きである。女性運転手のバスでドゥカーレ宮殿に行く。
街は中世そのままである。細く曲がった道におそらく建築規制された渋い色の外壁が続く。
ここは1328年以降400年に亘るゴンザーガ家の権力の象徴の城である。
「結婚の間」にはマンテーニャのフレスコ画でゴンザーガ一族の生活が描かれている。
ただし18世紀ペストで「死の町」となった。マントヴァは3方を湖で囲まれている。
2時の遊覧船の券を予約してモジリアーニの絵のポスターを飾る
カフェ「MODI」で昼食を摂る。
きのこ入りタリアテッレ、豚肉ミンチ入りリゾットがおいしかった。
この店はカードで決済OK。晴れた日のクルージング、メッゾ湖からインフェリオーレ湖へ。
そよ風が心地良い。ドゥカーレの遠景が美しい。
下船してサンタンドレア教会、ここもフレスコ画である。
マンテーニャの墓がある。ここから美津子のブラウスを買って一旦ホテルに帰る。
「CIRCOLARE」略してCCのバスに乗ったのが失敗で客に
「マンジャーレ(食べ)に行く」と私が言ったのでこの方向では
駄目だと途中で降ろされて仕舞った。
テ宮殿の裏らしい。キャンピングカーが並んでいて町からは遠い。
途方に暮れていると別のCCのバスが来て町の「中心」に行けた。
2人で3.1Eは滅茶高いバスである。夕食はソルデロ広場のテラスの店である。
WEBで勉強していた「かわかますのトマトソース」と「かぼちゃのタリアテッレ」
食後にチョコレート、とこの地方の名物木の実入りビスケットとカフェ、紅茶である。
ワインも2種類でボトル合計1本、以後1本飲むことは無かった。
コペルトと言ってテーブルチャージのようなものを一人3E払う。
バスはこりごりと美津子に腕を取られて道を間違いながら1時間かけて歩いてホテルに戻った。

マントヴァ ドウカーレ宮殿

船上からの宮殿遠景



12日
 徒歩で20分、住宅街を「テ宮殿」に向かう。
庭の藤やライラック、椿、が美しい。犬の散歩の婦人が「ボナパスクア」という。
今日は復活祭(パスクア)当日である。テ宮殿はゴンザーガ家の別荘である。
マントヴァの南端にある。
16世紀ジュリオ ロマーノとその弟子によって
建てられたルネッサンスの華麗な宮殿である。
そういえばここはリゴレットの舞台となった地で
「マントヴァ公爵」という人物もいた。
「騎士の間」「馬の間」「巨人の間」は巨人が床まで降りてきそうなぐらい、
大胆に、天井、壁に描かれている。展示は見易い。ホテルに戻る。
途次パスクアの礼拝を見学すべくとある教会に入れば
入り口まで立錐の余地も無いほどの満員、すぐに立ち去った。
午後は街なかを散歩してインフェリオーレ湖に出て湖沿いに散歩した。
ドゥカーレ宮殿の外周を廻って再度カフェ モジに行く。
今回はパニーノ(パンにハムなどをはさんだ食べ物)。
昨日と給仕の人が替わっている。宮殿の隣のロトンダにも入った。
円い建物は宮殿より古い建築で今は教会。
住居であったり、廃屋であったり、濃厚な歴史がある。
広場のテラスで昨日の隣の店で食事。
広場には黒い衣装の二人がバレエのようなものを踊っている。
アンデスの楽隊も歌っている。
もう道に慣れているのでホテルにもまっすぐに帰れた。
以降「パニーノ」は夫婦間では軽食の代名詞となった。

マントヴァ テ宮殿

テ宮殿の庭



13日
 クレモナへの遠足である。
マントヴァを9時43分に乗り、10時半に着く。共通券を買う。
最初はコムーネ宮である。13世紀に建てられたそのまま。市民の評議場である。
領主はいたが市民の自治権が認められていた時代を「コムーネ時代」という。
付属してヴァイオリンの展示室があり鍵を開けて11の名品を見せてくれる。
アマティー、ストラディバリウス、ガルネリなど。
市立博物館も見事な絵画がある。
美津子はカラヴァッジョの「聖フランチェスコ」の絵葉書を買う。
同じ建物からストラディバリアーノ博物館に行ける。初めに20分のヴィデオを見た。
ここはミラノやスペインの支配を受けている。
治乱興亡の歴史の中にも13世紀以来の教会や塔が健在なのは驚異的である。
ストラディバリは子供、子孫に恵まれたので現存している名器も多いのである。
18世紀初めの顧客(パトロン)に対するストラディバリの手紙も展示されている。
英訳の内容は「納品が遅れたお詫びや金銭の請求」など
本当にヴァイオリン職人の息づかいが感じられるくらいである。
1267年に出来たトラッツオ〈塔〉という502段の階段を登った。
バイオリンの合奏曲が終始流れている。上からの眺めは絶景である。
レンガ色の市街と教会の尖塔、ポー川が光る。
ブレーシアから来た2人の青年は「ケ ベッロ」(なんと美しいんだろう)という。
是非私と写真が摂りたいというので付き合った。当初はスリではないかと警戒した。
「ポー川の光に託す古希の夢」

クレモナ トラッオからの遠望

同上

同上

トラッオの外観



14日
  パドヴァへの移動日である。
朝、別れに際して食事の際に世話になった婦人
(この人はイギリスの執事のように無表情であったが)に
日本から持参したコースター(ピアッチーノ)2枚を贈呈した。
おかげで相好がくずれて食事も10分早くなり効果があった。
7時29分マントヴァ発の列車はモンセリーチェから北上する。
料金も一人6Eと安いのである。トンネルに入ると列車内真っ暗となる。
驚いた。9時36分パドヴァに着き、
インフォメーションでアルカソンの場所を聞いた。
道路工事をしていて道の一部は砂利であるが遠くは無い。1日79Eという。
ここは自前のレストランもあり、広い部屋でシャワーのみであるが、
感じの良いホテルであった。
マントヴァで目覚まし時計の電池が切れてボタン電池が必要だった。
タバッキで聞くと大きな時計店を教えて呉れた。
3.5Eで時間も合わせてくれる。
例の両替に成功、徒歩でプラート デッラ バッレという広場に来て仕舞った。
サンタジュスチーナ教会は午後3時半から見学できる。広場で時間を待つ。
日陰の茶店でジュースを注文し、美津子は大きな
(車椅子2台がゆうゆうと入れるような)簡易有料トイレに行った。
75セント入れたがドアが閉まらないという。
2棟あり、男女兼用なので夫婦で入り用を足して、
ドアのそばのボタンを押すと水が出、ドアが閉まる仕組みである。
美津子は75セント損をしたと嘆くが夫婦で利用したので損はない。
大笑いの巻である。
サンタ・ジェスティーナ教会は左右に突き出た礼拝堂もあり、
8つのクーポラがある16世紀建築の堂々たる教会である。
そこから徒歩で「サンタントニオ聖堂」に行く。
リスボンに生まれた聖アントニオは様々な奇跡を行い、
1231年に死亡、それから着工して16世紀に建てられた。
ビザンチン風の尖塔がある巨大建築である。ベネチア派の絵も無数にある。
キリスト教文化に圧倒される。
広場にはドナテッロ作の「ガッタメラータ騎馬像」がある。
ベネチアの傭兵隊長である。
隣にパドヴァ大学の植物園があるので憩いの時間を過ごした。
1786年にゲーテも観たという棕櫚もある。
パドヴァの街は小さいので翌日のスクロベーニの下見にも行く。
カウンターで予約番号を伝えると券を呉れた。これで安心。ホテルで夕食とした。
サラダを注文すると給仕がオリーブオイルと
バルサミコ酢、塩、胡椒でドレッシングを作ってくれる。
この給仕はてきぱきと客をさばく。

パドヴァ サンタジュスティーナ聖堂

ガッタメーラ騎馬像

植物園

植物園からサンタントニオ聖堂尖塔を望む

サンアントニオ聖堂



15日
 ポポレール銀行で1000Eを入金し、
悠々と10時にスクロベーニ礼拝堂に行く。地下でビデオを見せてくれた。
しかし、集合場所は礼拝堂前で15分ごとに最大25人の客を入れ替える。
モデナから来た婦人に出会う。11時になると別のビデオを再度見て礼拝堂に入る。
我々のグループは16人。
説明もないが1305年ロマネスク様式の礼拝堂の中の
ジョットーのフレスコ画は見事な極彩色である。
息を呑む素晴らしさである。誰もが沈黙して鑑賞する。
今回旅行のクライマックスでもあった。同じ券でエレミターニ美術館も拝観出来る。
ここも圧倒する美術品である。
午後市内見物のつもりで75分有効の券を買って軌道電車に乗る。
郊外のカパリネア ギッザというところで降ろされた。
隣に停まっていた電車ですぐに帰る。ホテルから須磨の母に携帯電話で報告する。
ドコモで教えられたとうりゼロを2つ押す。夕方徒歩で地図を頼りに街のセンター方面に行く。
サローネという13世紀の行政府の建物があり、街の違う様相が見られた。
ここで私の半袖シャツを2枚買う。90Eである。
パドヴァ大学では1500年代にガリレオが18年間教えていた。
パドヴァは東が中世風、西が近代風で調和している。

スクロベーニ礼拝堂



16日
   ベニスへの遠足の日、パドヴァ発8時15分の列車は
当初5分リタルド(遅延)であったが、定時に到着。
乗客は多数であったが2階もあり、我々も座れた。
仕事の人も多く、メストレで大勢が降りた。
ベニスサンタルチア駅には9時19分着。
トイレは80セントで有料である。「地球の歩き方」は
トイレの場所も書いてあるので有難い。
バポレットのチケット売り場で12時間券を買う。
今年からチップ内蔵のチケットである。
所定の機械に当てて乗るが以降はええ加減なものである。
大混雑で我々は最初に乗るのに30分待った。最初はサントーマ駅である。
美津子希望のフラーリ教会へ入ったと思いきや隣のサンロッコ教会であった。
15世紀建築でロッコはペストの守護聖人である。
ここで呉れた美術品の配置図と解説を夫婦で確認しながら鑑賞する。
ティントレットの作品ばかりで見やすい。
すべての教会をこういう具合に見れば意義がある。
天井画観賞用に大きな鏡が用意されている。
次いでフラーリ教会、ここもティチアーノの「被昇天の聖母」が有名である。
次はギリオ駅で降りてフェニーチェ劇場である。
96年火事で消滅、03年暮れに復元された。
ぜいを尽くした装飾で劇場内はとても美しい。
是非ここで音楽を鑑賞したいと思った。
ここの前の広場で威厳のある給仕のいるテラスで75Eの食事をした。
スパゲッティ・ペスカトレ、タリアテッレ・フンギ、
ティラミス、カフェ、カプチーノ、ワイン、水。
ここからマルコ広場はすぐである。広場では黒人のグループと
白人のグループのコーラスの競演が見られた。
おひねり目当ての団体では無い。広場の両サイドのレストランで
演奏しているプロのバンドは影が薄い。
塔へエレベーターで登った。
ここから観るサンタマリア デラ サルーテ教会と島にある
セント ジョルジュ マッジョーレ教会の眺めは世界でも有数の美であろう。
今回はそれが塔から見られる。何という幸運と思った。
ザッカリア駅からジョヴァンニ エ パオロ教会に向かう。
道が分かり難い。ベニスの住人は10人に一人なので、孫娘と家を出てきた老人に聞く。
日本からというと「万歳」という。
このお爺さんが示した通りは細い道でとても旅行者では分からない。
兎に角辿り着けた。ゴシック建築でベッリーニやベロネーゼの絵がある。
広場には「コッレオーニ騎馬像」がある。
ヴェロッキオの作でパドヴァの「ガッタメラータ」とは騎馬像の双璧らしい。
面白いことに波止場へは何とか帰れる。5時20分サンタルチア駅に戻れた。
ここから列車を間違うことは前述した。
メストレ駅で駅員に確かめると「セッテビナリオ、クアランタトレ ミヌート」という
「7番ホーム 43分は私の時刻表の列車と一致している」。
濃厚な思い出が残ったベニス観光である。

ベニス リアルト橋

マルコ広場塔からの眺望

サルーテ教会

マジョーレ教会

サンマルコ広場

コッレオーニ騎馬像

パオロ教会内部

パオロ教会ステンドグラス



17日
  ベローナ行きである。8時24分発でベローナに向かう。9時41分ベーローナ着。
ここでは3日有効の「ベローナカード」を購入した。
交通と施設に利用出来る。刻印は必要でなく最初の見学場所でサインをもらう。
まず13番のバスでアレーナの近くに行く。
そこから教えられたルイヴィトンの店を曲がればホテルボローニャである。
120E、ただしバス付きで部屋は広い。
最初にローマの彫刻美術館、美津子がキャプションのイタリア語を
電子辞書で読んでいるので女性学芸員に
「妻は電子辞書を使っているので展示物の理解が出来ます」
というと「以前にも日本婦人が電子辞書を使ってるのを見ました」という。
ブラ広場に出るとここでも一団のコーラスが「アヴェヴェルムコルプス」を演奏している。
次いでローマの3世紀に出来たアレーナ見学である。円形闘技場。
ここで夏に有名な「ベローナ音楽祭」が催される。22000人が収容される。
現在準備ないし修理中であった。
カブール通りからエルベ広場、シニョーリ広場を通過してサンタナスターシア教会に行く。
柱の下に2つのせむし像がある。ベローナはアディジェ川が取り巻く。
そこを出て川にかかるピエトラ橋を渡るとサンピエトロの丘が目の前に迫る。
ドイツのアルトハイデルベルヒもさぞかしこのような眺めと思う。
テアトロロマーノはもちろん「ベローナカード」で入れる。
野外劇場の後ろにエレベーターで上がれる美術館があり、
ここからのアディジェ川と橋や町並みは絶景である。
ローマの美術品に混じりギリシャ美術の壷があったので
学芸員に尋ねると南部イタリアからの出土という。
73番のバスでぐるーつと街を外周して駅に出た。
ガルダ湖に行くバスの情報を得ようとしたが時間が頼りないので列車で行くことにする。
ブラ広場のテラスで食事。
ボンゴレスパゲッテイー、ミラノ風カツレツ(実は鶏肉であった)など。
場所柄かテーブルチャージが一人6Eであった。

ベローナ アレーナ

アナスタシア教会の床模様

聖ピエトロの丘

テアトロロマーナからの眺望

ローマ遺跡の壁

列柱



18日
  歩いてカステルベッキオ美術館に行く。
ここはスカラ家の城塞であるが、今は市立美術館になっている。
アディジェ川のスカリジェロ橋の袂にある。
このレンガの橋は1944年ドイツ軍が破壊したが、
終戦後破片を拾い集めて復元された。
街の人の執念に頭が下がる。北の山は冠雪していてベローナが
北寄りであることを認識させてくれる。
城内部の見物も出来る。ここでゆっくりと至福の時間を過ごした。
ボランティアの職員が多い。美津子は学芸員に
「ここのマリアさんは幼子にお乳を飲ませてますね」
と感想を述べたが、何枚もそのような絵があるのに唖然。
今まであまりそういうのは見たことがなかった。 
そこからバスで2駅のサンゼノマッジョーレ教会に行く。修復中である。
11世紀の鐘楼があり、ロマネスク建築の傑作。
サンゼーノはベローナの守護聖人である。
教会を出ると骨董市があった。疲れてホテルで4時20分まで寝た。
美津子がドゥオーモに行こうという。
5時半にクローズするのでタクシーを利用した。
5.9Eのところ10E渡し、ラマンチャというと
運転手は大喜びで「イタリアーノ」と言う。
 荘厳なパイプオルガンが響きミサ中である。
ミサが終了してもオルガニストとヴァイオリニストが
演奏をやめないので内陣に座り聞かせて貰った。
アヴェヴェルムコルプス、カノン、タイスの瞑想曲。
バッハ・グノーのアヴェマリアは被昇天の聖母の絵の下で、演奏。
このように音楽は教会に、人々に捧げられてきたのか。
上にティチアーノの天井画がある聖堂でのひと時は珠玉のものであった。
最後御礼の挨拶に行く。2人は握手してくれた。
バイオリンの先生は「こんにちは」。
「あなた方は素晴らしい」というと、「音楽がすばらしいのです」と応えられた。
出ると一緒に聞いていた婦人が美津子に「音楽っていいですね。
息子もサキソホンを吹いています」と挨拶された。
私もピアチェーレと挨拶した。
日本の¥100ショップに相当する1Eショップがある。写真たてを2枚買った。
美津子はホテルからバスローブをプレゼントに貰う。
夕食はホテルのレストランで7時から。
パルマの生ハム、ズッキーニの花入りリゾット、鯛のフォイル焼き。
リゾットは2人前からということで、たっぷりあったので、
これだけでコーヒーも飲めないほど満腹。

スカリジェロ橋

カステルベッキオ

サンゼノ教会の塔

アディジ川から冠雪の山を望む

ドウオーモのチィントレット



19日
  昼から雨というので8時40分発の列車でデセンツアーノに行く。
イタリアのTVの天気予報は立派な制服を着た人が解説する。雨がポツポツ。
ここから船着場まで歩き、観光2時間か4時間かの問いに
2時間というとシルミオーネ行きを薦めてくれた。10時発の船には客も多い。
我々の前には南のバーリが故郷で現在ミラノに住む団体客が座った。
わずか20分であったが話に花が咲く。
婦人はブリジッド、ロゼッテ、シーラ、ルチアという。
男性は一人だったので「4人の奥さんか」と冗談を言うとそれぞれの主人も現れた。
下船の時は各人とアリデベルチである。ここにも12世紀のスカラ家の城塞がある。
島の北端に紀元前1世紀ローマの詩人ヴァレーリ カツロの別荘だったという遺跡がある。
北イタリアでも珍しく大きな遺跡らしい。約6000坪、復元図も展示されている。
この旅行では美津子の持参した電子辞書が活躍する。
遺跡の端の丘の表示を調べたら「危険」(PERICOLO)の表示であった。
ローマ遺跡では幸い晴れていた。
デセンツアーノに戻り、トムの家というピッツエリアで
大きなピッツア、ペスカトーレ、カルパッチヨを食べた。
飲み物はビール、カンパリ、ジュース、カフェ、カプチーノ。
コペルトもあり33Eであった。雰囲気の良い店であった。
雨も降り、ドウォーモも日曜で(?)閉鎖。ベローナに戻り、バスでフェルモ教会に行く。
ここもロマネスク形式の大きな教会である。ベッドで休んでいる間に、
美津子はグレープフルーツ、りんご、水をバールに買いに行く。
ベローナのホテルは鍵がかかってないことが判明、朝出がけに受付に直して欲しいという。
しかし帰っても何の説明もなく、鍵も掛からないままなので、
クレームすると外出する時は別の部屋に荷物を移し。
風呂は従来通り使っても良いと別の部屋の鍵をくれた。
バスタブ付きの部屋はこの階では他にないらしい。
しかし一晩だけなのでもう外出しないからともうひとつの鍵を返した。
その時やっと従業員はI’m sorry. と言った。

スカラ城塞

シルミオーネ遺跡の我々

列柱

遺跡



20日
 駅までタクシーを利用した。
ミラノ行きには初めてインターシティーの指定席に乗る。客は満員。
荷物は前の大きいスペースに置く。
ここで私はイタリアに働きに来て1年という中国人の娘さんと会話した。
中国語は喧騒なだけである。
フローラに戻ると朝食の世話をするおばさんが懐かしそうに握手を求めてくる。
この人にもレガリーノ(タペストリー)を渡す。
部屋で湯を沸かしてラーメンを食べた。みやげ物のショッピングの日である。
百貨店リナシェンテに行く。
ここでインテリア・デザイナーだったという75歳の日本婦人に会い、
3時半ペックが開くまで茶をともにした。
この人、医者の主人とは別れ、インテリア・デザイナーをしながら娘を育てたらしい。
毎年この時期ミラノの家具展のために1ヶ月部屋を借りるらしい。
イタリア人は皆ひとが良く、ここに住みたいそうである。
ペックでチーズを買う。スカラの休演は述べたとおり。
美津子は携帯で時差1時間のルーマニアの友人と話す。
月曜日はパスクアホリデーらしい。
部屋の鍵が掛からなかったというと、何か盗られたか?と聞く。
盗られたものは何もない。ルーマニアでは、絶対盗まれる。といった。


21日
  観光の最終日は晴天である。
8時25分のジュネーブ行き急行に乗車、
プラットホームは一番北の端からで6人がけのコンパートメントであった。
今日は5人。チケットは昨日購入してある。発車後すぐに車掌が検札に来た。
大きな紙に印刷された切符である。例の刻印は不要であった。
ストレーザには9時29分着、船着場まで20分あるく。
パッランツアまでの往復を買う。18E。先に客引きの水上タクシーは60Eと言った。
10時の船はまずベッラ島、次いでペスカトーリ島、マードレ島と寄ってゆく。
それぞれの島で大勢が下船する。
われわれは40分後パッランツアで降りてインフォメーションの地図に従って歩いた。
海岸から雪山が望め、邸宅の花が綺麗である。
約40分歩いてやっと目指す庭園に着いた。
タラント邸庭園とは1931年にスコットランドのマックイーチャン船長が
購入して造園した4万8千坪の庭園でその後政府に寄付され公開された。
庭園の入場料は8Eである。チューリップを初め、世界各国から求めた
木々、草花などあり、雄大な庭園である。自動販売機でジュース、パンを買った。
周囲の冠雪した山が借景となり素晴らしい景観である。写真を多く写した。
運良く1時40分の船で帰り、2時43分の汽車に間にあった。
終点はミラノガリバルディー駅である。ここでもスーパーがあり、買い物をした。
地下鉄でドゥオーモに行き、スカラ座の清算、ペックで土産の買足し、ホテルで荷つくりした。
一人20KGだから我々二人で40KGまでOKという。夕食は近所の「カヴァリーニ」に行く。
私はコック長お勧めのコーンスープとマグロのグリル。
美津子はリゾットと牛のカツレツなど、ドルチェは果物のコンポート、勘定は105Eであった。
客が次々と来て、はやっている。
美津子は荷物40KGが心配で寝られなかったらしいが、
翌日空港カウンターで計量するとわずか26KGであった。

ベッラ島

パッランツアへの途次の門

パッランツア

噴水

子供像と庭園



22日
  朝、フローラで世話になったおばさんに別れの挨拶をした。
マルペンサ行きのバスには荷物を持った客が大勢来る。
マルペンサのルフトハンザ窓口はターミナルNo1である。
ターミナルNo2からは遠い。No2は国内線かもしれない。
ミラノの北の山脈は昨日見た山より峻厳で雪に覆われていた。
出国審査はフランクフルトのみであった。相変わらず飛行機の中はすずしかった。
美津子が「二人やから出来た旅行やね」という。その通りと思う。
(完)



2009年4月9日~23日 北イタリア鉄道の旅  

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