※ フランスの旅 ※ 2007年4月
フランスの旅
プロローグ
元旦早々から「ハント症候群」という難病に罹ってしまった。
40年ぶりに入院し、点滴の治療を受けた。
ウイルスに平衡神経をやられた結果、めまい感がなかなか治癒しない。
特にフォークダンスの練習が出来ないことは生活のリズムを狂わせた。
「フランス世界遺産ツアー」は阪急交通社へ12月に申し込み金の振り込みを済ませている。
歩行速度は普通人並みであり、取り消しせずに参加するのは自然の流れであった。
出発前日の4月12日にはユーロは円に対して歴史的な高値¥160.3を維持している。
旅行代金は約33万円である。私は小遣いとしてドル普通預金からの
スイッチで先ず740ユーロを用意し、3月中に¥152で260ユーロを手当てし、
CITY BANKで1,000ユーロのTCを100E2枚、200E4枚で組んだ。
語学の復習は病気の為に出来なかったが、和仏辞典を持参することにした。
準備を終えた12日夕には美津子とJR甲南山手駅の近くの串カツの「さくらい」で済ませた。
勘定は1万円、旅行の前祝いであった。
13日
「関西空港」 阪急交通社の団体は30人、構成はNTTのOB男性4人組、
女性の2人組が3組、残りが10組の夫婦である。添乗員は若い市川氏。
KLMは11時10分に離陸、シベリア上空からレニングラードの北、フィンランド、
デンマークを通過してアムステルダムのスキポール空港に着く。
時差は7時間、EUのお陰でここでフランスへの入国手続きが出来る。
売店でわずか4E(ユーロ)のお菓子を買って100EのTCを出す。
親切な小母さんが日付を記入して待望のユーロの小額紙幣を呉れた。
チューリップの球根を売っている。ニースへの便は現地時間の6時であるが、まだ明るい。
窓から見るオランダの風景は風車こそ見当たらないが、灌漑用の池、水路が至るところにあり、
風力発電も見られた。左手にスイスアルプスの冠雪した峻厳な山を見るともうすぐニースである。
飛行機は一旦地中海に出て南から空港に着く。8時だがまだ明るい。
「アボジア」ホテルは街の西にある。簡素なホテルである。
バーでミネラルウオーターを買う。初めてフランス語を話した。ドネ モワ ロ ミネラル プラト
14日
「ニース」曇天。朝海辺まで散歩する。沢山のヨットがある。
ミネラルウオーターを買う。僅か0.45E(45サンチームという)である。
日本料理の店もあり、メニューにBENTOとある。朝食後は市内観光である。
今日は半袖シャツ、めぐみさんというガイドが付く。
街の東に小高い丘があり、そこが「要塞」で、「要塞の西」に旧市街がある。
元要塞の丘には瀟洒な別荘が立ち並ぶ。各家の藤の花が綺麗。
展望台ではコートダジュールの浜辺はもちろんニースが全望出来る。
イタリアの山も見える。人口40万でリヨン、マルセイユに次ぐフランス第4の都市らしい。
朝市を見てオレンジと石鹸を買った。天気は晴れてきた。
シャガール美術館(画家はニースから23km北の村で生活)は
めぐみさんのステンドグラスや絵画の説明で意義深く見られた。聖書の教えを題材にした作品が多い。
ガイドの説明を聞くために「耳太郎」というイアフオンを耳につける。
次いでモナコ公国に行く。25年前にグレースケリーが墜落した道は山の上を通る道である。
娘さんとゴルフ場で遊んでの帰途の事故らしい。1297年以来のグリマルディ家が存続している。
「宮殿」の右はゴシック建築である。衛兵もいる。大聖堂にはレーニエ3世、グレースケリーが眠る。
F1の開催予定地を見て、「グランドカジノ」に行く。ここはエントランスのみの見学。
帰途「通称 鷲の巣村 エズ」に行く。孤立した高い頂上に城壁を巡らした街がある。
14世紀ころにイスラム教徒の襲撃を避ける為に作られた。麓にバスは駐車して我々は迷路のような道を登る。
頂上がサボテン園で眺望が素晴らしい。道の両側は土産店だらけ。
安い家賃で住む人を呼び込んでいるらしい。確かに街は人が住まないと荒れる。
次いで香水の「フラゴナール社の工場」へ行く。当地は香水の産地である。
パリの有名な香水も原産地はここである。日本の金木犀の香りも輸入している。
香水のテースチングをする人は酒は飲めないが、一日の労働は2時間で高給取りらしい。
ここでも100EのTCが使えた。夜は当地のいわし料理であった。
以降我々の昼夕の食事はすべて前菜、メイン料理、デザートの組み合わせである。
それと赤白のワイン、ロゼ、ビール、各種ジュース。
ニースの町
我々とニース
エズの頂上からの地中海
15日
セザンヌの生地、「エクスアンプロヴァンス」へ向かう。
周囲は農園ばかり、「花蘇芳」の紫の花が美しい。貴族の館で昼食。
螺旋階段は時計と反対廻りになっている。
これは敵が来襲した時に主人は右手の剣を防御に使い易いとは市川氏の説明である。
ミラボー(初期のフランス革命指導者)通りはプラタナスの並木道。
子供向けの回転木馬が見える。1時間の自由時間で我々はセザンヌの生家を目指した。
ガイドブックの地図が出鱈目で、数人に聞いても分からず、ガイドブックを手に
ウロウロしていると最後は若い自動車に乗ったカップルがクラクションを鳴らして教えて呉れた。
フランス語で尋ねるのは良いが速射砲の様なフランス語が返って来る。
彼は富裕な帽子屋の家に生まれたとあるが、庭も無く、
間口の大きい家だが小さい入り口、右の上にプレートがあり、
「1839年1月19日セザンヌがここで生まれた」と記述あり、記念写真を撮る。
訪ね当てたのは千里山の女性2名と市川氏と我々のみ。
我々は(セザンヌがよく描いた)「セントヴィクトワール山の展望場所」
という看板に惹かれてそこへ向かったが、時間が無いので諦め引き返した。
ミラボー通りへ帰るのも中世の街なので苦労した。午後1時に「アルル」に向かう。
ヴィクトワール山の白い岩肌はバスの車窓から良く見えた。六甲くらいの高さである。
途中「ゴッホの跳ね橋」が復元されている場所に行く。
跳ね橋の絵は高校時代に絵画の中安先生から模写を命ぜられた。
原画の橋は黄色であるが、現在の橋は黒色である。
ゴッホは芸術感覚で黄色に描いたのかも知れない。
アルルのガイドは当地に住む若い主婦である。
「ローマ時代の円形闘技場」を案内して呉れた。
紀元75年ころの建築で2万人を収容出来る。今でも闘牛場に使われている由。
ゴッホが耳を切って入院した「病院」は再建されて、
特に中庭はゴッホの絵と同様に復元されている。
ここで友人マイクにシャガールの絵葉書を出した。切手は0.85E。
「公園や酒場のある風景」もゴッホの絵に近いように保存されている。
当地はミネラルの多い塩の産地でもある。
バスは北上して「ドーデの風車」に向かう。ドーデの「月曜物語」は少年時代に読んだ。
一般には「風車小屋便り」が有名。美津子も「最後の授業」は読んでいる。まことに牧歌的な風景である。
ツアーの1名の婦人が迷子になり大騒ぎ、40分遅れてアヴィニヨンに到着。
当地では「蝉」の飾りや置物が人気である。
市川氏に理由を問えば「日光の豊富な夏を心待ちにしている
プロヴァンスの人は蝉を夏の象徴と見ている」ということだった。
セザンヌの生家
ドーデの風車
ゴッホの跳ね橋
アルルの円形競技場
16日
快晴。ローヌ川のサンベネゼ橋は写真とおりローヌ川の氾濫で
川の途中までしかなく、サンニコラ礼拝堂を残すのみ。
今日のガイドはみちさんというアヴィニヨンの市の職員である。面白い小母さんで法王庁を案内して呉れる。
1307年から約70年間法王庁はここにあった。
「アヴィニヨン幽囚」とか言うが、実際は法王がローマの派閥争いを嫌ってここに移転したらしい。
中庭では当地の7月の名物「演劇祭」が行われる。
超満員の風景を写真で見せてガイドは誘導して客に「ほーっ」と言わせる。
「法王」をもじったジョークであるが1日に数回客を誘導しているので実に載せ方がうまい。
面積15,000平方mで兎に角巨大である。
大食堂の丸天井は木製であるが、これは「ノアの箱舟」を想像させるためだ。屋上からの展望も素晴らしい。
この城郭は2回敵の来襲を受けた歴史があり、迫力がある。昼食の後バスは南西に向かう。
ガール川に架かるローマ時代の巨大橋「ポンデュガール」、ニームの要塞までの50kmの水道である。
高さ48m3層のアーチは当時の奴隷の労働の成果であるが、
他の水道の石はほかに転用されて残るのはここのみらしい。川では子供が水浴びをしているのどかな風景である。
バスはひたすら走ってラングドック地方、中世の街「カルカッソンヌ」に着く。
ピレネー山脈が見えると思ったがさに非ず。ここは曇天で肌寒い。ローマ時代からの濃厚な歴史がある。
「9世紀始めシャルル大帝のころ城主の奥方カルカスはもう落城寸前のところ、
残った1匹の豚になけなしの小麦を食べさせてシャルルの軍勢に落とした。
豚の太った具合に城中の底力を錯覚したシャルルは引き返した」という故事がある。
故事から土産物の豚の貯金箱もある。2重の城壁も珍しい。
城壁の内側の狭い通路を歩行する際に初めて病気の「めまい」を警戒した。10世紀以来の古い教会が良かった。
土産物屋では美津子のダンス用スカートが「伝統的な民族衣装」で155Eという。
試着して写真を撮っても良いという人の良さそうな小母さんは神戸や大阪の地名も知っている。
省みてこのスカートは惜しまれた。城壁を歩いていると、
通りがかりの若い婦人が自ら申し出て写真のシャッターを押して呉れた。
彼女はボルドーの近くの人で「南西部には日本人は来ない」と嘆いた。週末に大統領選挙がある。
私が「マダムロワイヤルやサルコジは日本でも有名ですよ」というと天を仰いだ。
ホテルまでの途中でライトアップしたカルカッソンヌ城が美しく見られた。
夕食は「カスレ料理」で鶏の喉の肉料理、よく煮込んだ豚とソーセージと鶏と豆の鍋料理であった。
アヴィニヨンの橋と法王庁
ポンデュガール
カルカッソンヌの2重城壁
花蘇芳
美津子と民族衣装
17日
曇り時々雨。朝食前に霧雨の中、公園を散歩する。ここは駅があるらしい。
ホテル名にTERMINUSとある。北西ドルドーニュ地方に向かう。今日はバスで525kmも走る。
このツアーは添乗員の配慮でグループを3組に分けて順番を替えて席を取る。
ところが後部座席を所望する人が大勢いて3組の我々でも何時も前の座席に座れた。
この日は最前列。昼食に鵞鳥の肝であるフォアグラを食べる。
ここは本物の「田舎の料理屋」で風情があった。もちろん昼からワインである。
市川氏によれば一般にフランスの北部は赤ワイン、南部は白ワインであるが、ボルドーも赤ワイン主力という。
それにロゼもある。1940年2名の少年が発見した
「ラスコーの洞窟壁画」はヴェゼール渓谷の中というが渓谷という感じはしない。
2名は今も存命中の由。観光は時間制で我々は3時半組である。
本物の壁画は1963年以降閉鎖、現場から2km離れている
「ラスコー2」のコピー洞窟であるが11年の歳月を懸けただけあって精巧である。
現地ガイドが英語で喋り、市川氏が説明する。17、000年前のクロマニヨン人の遺跡である。
牛や鹿、バイソン(野牛)などの画が躍動感あふれるタッチで描かれている。
おそらくここで古代人は豊猟を祈ったことであろう。どうして天井に描けたのかが疑問である。
現代でも複製を作るのに特殊な木製の台車を作っている。豊富な色彩も如何にして着色出来たのか驚異的である。
複製は研究の上で同じ素材で再現したという。とにかく人類の祖先の偉業は我々に感動を与えた。
1994年マドリッドの博物館で見たアルタミラ(フランスとの国境)の壁画の複製より余程良かった。
売店で10Eの写真を見る玩具を買う際に200EのTCで支払った。
これで一挙に懐具合は良くなった。ボルドーへの道中は周囲が葡萄畑の連続である。
それに「からし菜」の黄色い畑が延々と続く、これは麦の2毛作で秋蒔きの畑の肥料となるらしい。
南からのガロンヌ川と東からのドルドーニュ川がボルドーの北で合流し「ジロンド川」となる。
フランス革命時のジロンド派はここの出身の議員で構成された。
ボルドーは英領の時代(1154~1453)もあり、英国向けのぶどう酒の基地で富裕な街である。
ここにはトラムカーもあった。省資源で欧州各地で人気があるらしい。我々は日本でも2005年暮れに富山で見た。
ラスコーの道案内
からし菜の美
18日
快晴。ボルドーから北に向かう。今回ニース以来の運転手はジョルジュという。
奥さんは日本人、20歳の息子はスコットランドで働く。留守勝ちの彼は貞節な日本婦人を選んだ由。
バスは古戦場のポワチエを通過してトゥールに向かう。
見渡す限りの平野ばかりで日本の古戦場のイメージが沸かない。
ロワール川の流域には王侯貴族の城が多数存在する。大半は狩りの基地である。
我々はトゥールの上流でシエール川沿いにある優美なシュノンソー城を訪問した。
16世紀の創建でアンリ2世と愛人ディアーヌ、正妻のメジチ家のカトリーヌの争いは
Hと2つのCの組み合わせの紋章がHとDの組み合わせにも見える。
アンリ2世の死後カトリーヌはディアーヌに別の城を与えて追い出している。
現在は驚くべきことに個人の所有で見学も制限されている。
所有者の意思でここの回廊は第一次、第二次戦争の戦傷者の病院となったこともある。
バスは更にロワール川の上流、シャンボール城に向かう。
フランソワ1世が築いた当地では最大の城である。壮麗な城である。
日本でもそうだが城は離れて外見するのが良い。
帰途ジョルジュと市川氏の意思疎通で15世紀末創建のアンボワーズ城の下で1時間無為に過ごした。
フランソワ1世が招いたので晩年のダヴィンチもここで暮らしたという史実がある。
「モナリザ」がフランスにあるのもダヴィンチが携えてきたからである。
美津子が若い時に来たのはこの城らしい。夕焼けのロワール川の風景を見た後にチキン料理。
トゥールに泊まる。
シュノンソー城
シュノンソー庭園での我々
シャンボール城
19日
晴れ。トゥールの駅まで散歩する。日本のような改札は無く、切符の刻印器がある。
これに切符を通しておかねば検札の際に疑われる。
バスは自動車レースで有名なルマン市やレンヌ市を経てモンサンミシェルに向かう。
道中は相変わらず牛や馬の放牧が見られる平野であるが、第二次大戦中には爆撃を受けたらしい。
この当りはパリを取り巻く都市群である。昼前に北の遠方に「モンサンミシェル」の姿が見えて来る。
「城のような修道院」である。天使にも位があり、受胎告知をしたのは「大天使ガブリエル」である。
ここの天使は「大天使ミカエル(サンミシェル)」である。金ピカのミカエル像が150mの尖塔に聳える。
708年司祭オベールが夢でミカエルから「岩の上に教会を建てるよう」に厳命されたのが始まりである。
3つの川が湾に流れ込むので潮の干満が激しく、新月と満月の際には15mにも及ぶ。
我々はバスを降りて細い道路を通って料理店に入る。名物のオムレツである。
巡礼者に振舞われた伝統のオムレツが2分の一のサイズで供される。
14世紀の100年戦争では要塞になったこともあるし、
フランス革命の際には政治犯12、000名が収容されていたという歴史もある。
川の沈殿物で海底が100年で3m上がったそうで、現在川の砂防工事が行われている。
近い将来はバスや乗用車での接近が禁止されてシャトルバスで見学することになる予定である。
メルキュールホテルは対岸にあり、散歩すると容易に景色が見られる。
テントの店で土産を買った後我々はホテルで休憩後この遠景を見に行った。
夕食には当地のりんご酒「シードル酒」を飲んだ。これを蒸留すると酒精度50度の「カルバドス酒」となる。
美津子は夕食後の9時ころ潮の満ちた風景を見に行ったが私はホテルのバーでマテニーを味わった。
ルモンド紙は長崎市長がマフィアに殺された記事を報道していた。
モンサンミシェル
20日
快晴。今日はいよいよパリに向かう。昼に「シャルトル大聖堂」到着。男性のガイドが付く。
ここまで宗教施設を種々見て来たが、フランスはマリア信仰である。
創建は8世紀にも遡れるが、1194年の再建で今日の姿の原型となる。
正面から見て右がロマネスク様式、左がゴシック様式の塔である。
ここのステンドグラスは実にサッカー場2面にも相当する広さという。
聖書の教えを描いた画が多く、下から物語が始まる。
12世紀に製作されたマリア像の青い色はシャルトル・ブルーで有名である。
そして面白いのはグラスを寄贈した団体の記しも描かれていることで、
靴職人、両替商、水売りと火消しなどの説明を受けた。
両替商の秤を置く平たい台をバンと呼び、これがバンクの語源でもあるという。
外に出て「鮭の家」を見る。魚屋が建てた家は1階が小さく、2,3階と大きくなっている。
領主が租税を1階の敷地面積に応じて徴収したからという。
中世の街であるから未だに道路は真ん中が低く、雨水は道路の中央を流れて開所から流れる。
パリに近づくにつれて渋滞がひどくなる。ホテルに行けるどころかクルージングの時間も8時半になる。
1997年にダイアナが死んだトンネルの側を通過した。食事が先になる。
エスカルゴを食べてバスでエッフェル塔の近くに行く。
時あたかも8時でイルミネーションが火花のように塔を駆け巡る。
今日は「バトーパリジャン」の船でシテ島を迂回して1時間のクルーズである。
座席は満席に近い。ガイドフォンは8種類の言語で説明する。日本語もあるが、どうも大時代的。
ホテルはシューペリアークラスの「ホリデイイン ラ ヴィレット」である。やれやれ。
シャルトル大聖堂
シャルトルのステンドグラス
21日
快晴。ホテルで200Eを両替する。もちろん手数料は無し。
「ルーブル博物館」を見る。団体は地下から入るので並ぶ必要は無い。
サモトラケのニケ、ビーナス、モナリザ、ダヴィッドの「戴冠式」とは18年ぶりに再会した。
「コンコルド」広場の語源はあの広場にエジプト政府から
オベリスクの寄贈が申し入れあり、皆が「同意した」という意味らしい。
三越では美津子のスーツケースが壊れたので補強のベルトを購入。
日本食の「口悦」(光悦を洒落てる)という店での昼食は
刺身と鮭の焼き物、ひじきの煮物、ご飯と味噌汁である。
パリ在住の日本人に人気の店らしいがこんなものかという印象。食後は自由時間である。
地下鉄のオペラ駅から乗り換えて「セントオギュスタン駅」で降りる。
地下鉄は全線同一料金。ハウスマン通りを表示されている番号を見て歩く。
右が偶数、左が奇数で分かり良い。2時に「ジャックマール アンドレ美術館」に到着。
19世紀の富豪夫妻の住宅とコレクション(フラゴナール、ヴァンダイク、ルブランなど)を観た。
日本語のガイドフォンは美津子がうまく操作するので感心した。館内の喫茶で旅行を振り返る。
フランスは水道水も飲めて清潔で豊かな感じがする。私のフランス語も語彙は少ないが何とか通じる。
疲れたので地下鉄でホテルに戻り、汗を流し、近所を散歩して矢張りフランス料理の店に入った。
店主夫妻のほかに料理人がいるらしく、大きなサラダと私は鮭の料理、美津子は貝の料理で最後の晩を祝えた。
50Eだった。
22日
紆余曲折の末フランス航空の直行便で帰国出来ることになった。
免税店で美津子の「ロンシャン」の鞄を買う。最後のTCを使用した。
帰宅したら美津子が3月に受験したイタリア語検定の合格通知が来ていた。
(完)
2007年4月13日~22日 フランスの旅